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「ない」ということ ~きうらのコラム-01

投稿日:2021年3月15日 更新日:

  • 二度と手にできないものがある
  • それは手にしているものでもある
  • 気づくのが遅すぎたのか、早すぎたのか
  • ない:☆☆☆☆☆

それは「ない」のであった。私がここ5年にも渡って探し求めていた若き日の「情熱」「恋」「衝動」のようなもの。世界のどこかにはそれが残っていて、自分はまだ探し出せていないのだと思っていた。しかし、同じ日常が何年もスライドして繰り返す中、それは全く唐突に実感として「ない」と、ストンと今日落ちてきた。それが答えだったのだ。まったく、理由などなく、ふと、そう思った。そして、それは可笑しいぐらい正解だった。

私が最近テレビやアニメ番組を観なくなったのは、それらが、ひたすら失った理想や頂点を目指して作られているから、のような気がする。永遠に滅しない若さなどなどなく、番組制作者たちもそれを知っているにも関わらず、ひたすらにそれを包み隠して、笑いや娯楽に変えようとする。しかし、そんな番組からは腐臭が漂っている。確かに20代前半の若者からは得体の知れないエネルギーが発せられているが、それを食んでいるのは「年老いた」ディレクターなのだ。政治を責めても、芸能を論っても、社会の矛盾を指摘しても、そういった老醜たちが放っている薄汚い匂いからは逃れられない。今の映像は私から見れば全部腐っている。

忘れもしないのは、ダウンタウンの松本人志だ。彼は30代の絶頂期、そういった年老いた芸人たちを笑いものにし、もし、自分がそうなったら死んでもいいと思っていたはずだ。「ダウンタウンのごっつえぇ感じ」で「ダウンタウン2014」というコントがあったが、そのコントよりさらに笑えない、職業的芸人に成り下がってしまった。「若さ」「暴発」「破壊」の化身(神)であった彼は、今やメディアの犬(俗物)に過ぎない。私はそんなM-1などで醜悪な姿をさらす彼を正視できない。ただし、人としては本道に戻ったというべきだろうが。

他者に評価されなければ、意味がないという考え方も納得できるが、出来レースででっち上げた「成功者」の存在に違和感を抱くことも多々ある。偽物が多すぎて、本物の存在が認知できない。芥川龍之介はどこだ? 菊池寛はどこだ? 直木直木三十五はどこだ? 華麗なFireworksに、もはや眩暈しか感じない。

無くなった。それは本当に無くなったのだ。経験、貫禄、人生経験などと言い換えてみても同じ。無いものはないと認識できないものは醜い。その姿を見たくない、声も聞きたくない。同時に、若さだけで重用されているものの姿も見たくない、聞きたくない。表舞台に立つものは、絶対的な力を持っていない限り退場してほしい。そんな穴だらけの情報を得たくはない。私の耳に入れ、情報として成立させてほしくない。

しかし、ない、ということは、同時に「ある」を実感することでもある。私であっても、こうやって文章を書いている「今」を含め、何もかも無いわけではない。数え上げれば、むしろ無いものの方が少ないのではないかと思ったりもする。では、それが幸福かと言われれば、圧倒的に「否」だ。ご存じの通り「不幸でない」のは「幸福である」と、同義ではない。私の中の欠落が、「ある」ものを徹底して無きものとしようとしている。なんとも、空しく、そして、悲しい現実ではないか。しかし、それが主観的な光景だ。

とはいえ、それこそが「生きる」ことの全容であろう。私の知る限り、境遇の違いに差はあっても、そこに生じる人間的感情にはあまり違いがないようだ。V・E・フランクルやトルストイの著書などを引くまでもなく、生きることはそれ自体が「苦悩」そのものなのだ。徳川公の

人の一生は重荷を負うて遠き道を行くがごとし。急ぐべからず。
不自由を常と思えば不足なし。こころに望みおこらば困窮したる時を思い出すべし。
堪忍は無事長久の基、いかりは敵と思え。
勝つ事ばかり知りて、負くること知らざれば害その身にいたる。
おのれを責めて人をせむるな。
及ばざるは過ぎたるよりまされり。

という伝説的発言を、噛み締める日々でもある。

人生は大体2-3万枚綴りのチケットのようなものだ。一日、目が覚めるとそのチケットが一枚ちぎれる。それには今日しかできないことが細かく注意書きとして記されている。しかし、私たちはそんなチケットの注意書きなど読まない。未来永劫、このチケットは有効なのだと信じている。しかし、これは盗まれもするし、いきなり有効期限も切れたりもする。本来は、その日、寝る瞬間、そのチケットが有効だったことに感謝を抱くべきなのだ。神でも偉大なる存在でもない、自分そのものの運命に対して。無きジョブスが「今日が人生最後の日だとしたら、今日の行動をするだろうか」という問いは、あまりにも難しく、そして厳しい問いだ。

ゆっくりと死んでいく。有るということは損なうことだ。失った何かを別のポジティブな事象に昇華させたとしても、命が減っていくという事実には何ら関係ない。むしろそれは全体的には無意味と同義なのだ。善人として生きても、サイコパスとして生きても、命は減っていく。その基本は一緒なのだ。良い悪いの違いではない。優劣の違いでもない。貧富の差でもない。命は使うと減っていく、ただ、それだけのことだ。

これは陳腐な人生論に過ぎないが、見回せば、同じことをつぶやいている人々は多くいる。政治家、実業家、詩人、音楽家、文学家、芸人、みんな、同じ苦悩と戦っている。

きっとその答えは出ずに死んでいく。だから、これ以上「自分」で悩むのは止そうと思う。あるものはあるし、無いものはない。無くなるものは止められないし、それは着実に減っていく。それで正しいのだ。私のように、文字の世界に永遠を求めてもそれは同じ。そこに損なわれないものなど何もない。新しく蘇るのは何千年かに一度の奇跡が起こった時だけだ。

減っていこう。堂々と、偽りなく、満足に、納得して、今日も減っていこう。

尽きるとき、もはや、そんな些末な問題は全ての世界と混ざり合って、分からなくなってしまうのだから。

減ってしまうことは、何にも増して圧倒的に「真実」であるのだから。そう、だから、気楽にいこうぜ。ここにいるだけで充分だ。そう思い込めるだけの力は残っている。何にも届きそうではないけれど。

(きうら)


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