★★★☆☆

「待つ」ということ(鷲田清一/角川選書)

投稿日:2019年3月20日 更新日:

  • 「待つ」ことの臨床哲学的考察
  • 「待つ」ということは、なにもしないことなのか
  • 本書の紹介ではなく、個人的な考えを断章的に書きます
  • おススメ度:★★★☆☆

【はじめに】

「待つ」ということはいったいどういうことなのか、について臨床哲学の側から考えだされたのが、本書の内容。「待つ」ことができなくなった現代にあっても、「待つ」ことはできるし、「待つ」しかないこともあるものの、その「待つ」の様相は変わってきている。携帯電話(スマホ等)により、「待たない/待てない」社会になりつつある現代において、「待つ」とは何かを考えていく。それと、いろんなケアの現場でのことを、著者は書いていく。

ここでちょっと私事になるが、学生時代に、「人事を尽くして天命を待つ」と言ったところ、同級生から「その言葉好きちゃうわ」と言われてしまった。この言葉は日本のものではないので意味が取りづらかったのかもしれないが、「天命を待つ」という部分が、どこか他人の力をあてにしたものと捉えられてしまったのだろう。この言葉を読み換えて変なことを言っていた識者もいたくらいだから、日本人に「天」を理解することは難しいのだろうか。でもたとえば、受験の時に試験までにやることはやったことや、スポーツ選手などが試合までに万全なコンディションで本番を待つこと、というような意味で、「人事を尽くした」と言うことはよくあるのではないだろうか。それで後は運を天に任せるということは、日本人なら誰しもやっていることではないだろうか。こんなことを書くのは、なにも意趣返しとかではなくて、ただ単に「待つ」ことしかできないということを、そのときにはじめて強く意識したから。そして今も、人事を尽くしたかどうか分からないが、何かの道が開けるのを待ち続けるしかできないからということを、強く意識せざるを得ないから。

【「待つ」ことの概略】

「待つ」というのはふしぎな行動だと思う。そもそも、行動といっていいのか分からない。何もしていない人を見ても、その人が何かを待っているという、ある積極性をその人がもっていることがわかるときがあり、それを「待つ」の一様態と捉えられることもあるように思える。それは人間だけのはなしなのだろうか。たとえば、動物(犬)が何かをじっと待っている(エサを与えてくれるのを待っている)のを見た時に、犬が何かを待っていると人間が言うことは出来る。では、はたして犬(動物)が何かを待っているという意識を持つことはあるのだろうか。もちろん犬の脳の状態を調べて何か分かるかもしれないが、何かを「待つ」という言明を犬がすることは今のところなさそう。とはいえ、人間ですら、「待つ」ことを言明しなくとも、何かを「待つ」ことをできるし、あるいはその時になってようやく何かを待っていたということができるようにも思われる。それに、外形的な「待つ」を主題にあげるときには、「待つ」という言明などは必要ないようにも思われる。
では、そこで人が待っているもの、つまり人に「待たれる」ものは何かということを知ることができるのは、または、待たざるを得ない時の到来を知ることは、いったいいつなのだろうか。たとえば、大病や大けがからの恢復を待つしかない時や、人がその結果に何の関与もできない事柄をただ「待つ」しかない時に、それらを待っていたことがやがて前景化するとして、そのような極限状態は「待つ」のひとつの局面でしかないだろう。
また、何かを「待つ」ことが、ひとつの信仰に近い信念につながることもある。そうなると、そこでは、「待つ」は、何かは分からないけど何かが来ることをじっと「待つ」という、未来の現在化になるように思われる。
てなわけで、「待つ」は、単なる卑近なものから、消失点のみえない地からの、何らかの「他者」の到来を期待せず「待つ」ことにまで、自在に伸縮する。そこでは、時間性という意識も変容する。

【「待つ」ことが変わったこと】

「ものを長い眼で見る余裕がなくなった」としても、窮極的には《死》を待っていることは変わらない。《死》への通路においては、限りなく細分化された「待つ」ことの様々な局面が意識されるようになった。それらは、「パソコンの立ち上げ時間」を「待つ」こと、相手からの返信を「待つ」こと、料理の仕上がりを「待つ」ことなどの、色々な「待つ」の時間短縮で構成されることで、すべての「待つ」における個々の時間が圧縮されて、「待つ」ことが限りなく薄く積み上がってしまう。いわば、「こがれる」ための「待つ」ではない、近視眼的な、「せっかち」な「待つ」の連続的な繰り返し。そこにはもう、「待つ」ことに付随するはずの偶然性や超越性は捨象されていってしまう。

【「待つ」に向かって己を開く】

「待つ」には「期待」や「願い」や「祈り」が内包されるとされる。それらを願いが消える消失点まで、つまり「忘却」に至るまで「待つ」を消すことが「待ち遠しい」ことを意味しても、消え去った後に何らかの偶然的で予期せぬものをあらかじめ「待つ」ことはできないだろうか。「待つ」ということではなくて、「待つ」ことをもはや信じられなくなるその時まで「待つ」しかない、という態度で自らを「開け」ることで、待っていなかった「待つ」を迎えることはできないものだろうか。

【絶望ではない「待つ」】

<もう待てない>と人が言う時、人は絶望しているのだろうか。しかし、「待つ」ことができなくなるのは絶望と同義ではない。過酷な状況にあっては、「いま」という様相に回収されていってしまうような、もう思考とはよべない「予期」への待機に、人は緊縛される。そこには未来へのかすかな期待を含む。ところが絶望とは、現在の反照としての未来を置き去りにした時間性という観念の途絶であって、そこにはもはや未来につながるはずの「既知」のかけらもない。だから、「待つ」という未来への「予期」もなくなり、「待つ」の彼岸に人は到達してしまう。

【不在のものへの「待つ」の転化】

「未知」のものを「待つ」ことはできないが、「未知」のものがあるかもしれないと「待つ」と言うことはできる。そうして、「待つ」ことは「徴候」という相を帯びる。何の兆しもない突然の痛みが間歇的に人を襲う時、人は、それを待っているわけでもないのに、待たざるを得なくなる。そこでは、もちろん「徴候」はなくとも、その現象を何の予兆もない「徴候」として意識せざるを得なくなる。もはや、待たないということはできない。痛みと痛みのあいだにある痛みの不在は、不在でありながらも「待つ」ことを否定したうえでの「待つ」へとなり果てる。こうして「待つ」ものの状態は、《待たされる》という状態に転化する。

【待つと待たせる】

「待つ」者と、「待たせる」者とは対照的なのか。「待つ」ほうは信頼することしかできない。「待たせる」は「待たされる」ことでもあり、「待つ」者の「信頼」の貫きをじっと待ちつつ、待たれなければならない。「待つ」人の「待つ」行為の「自壊(=待たない)」を念頭に、「待たせる」者は両者に引き裂かれる。また、「待つ」ことが常の習いになった者は、「待つ」以前に戻ることができず、「待つ」が身体性に癒合し、それ以前から待っていたという痕跡だけがのこることになる。

【なにも待たないように、何かを待つ】

誰かの言葉を「聴く」ことは、他者性をそのまま受け入れることであり、そのこともまた待たなければならない。では、<他>なるものを「待つ」とはどういうことだろう。<他>なるものの声を聴くことの極北は、<死>の足音なのかもしれないが、それを措定してしまった時点で、「期待」を伴う「待つ」ではなく、すべてがありもしない未来へと収斂してしまう。そこにはもう「待つ」ことのない「待つ」しかない。「待機」とは何らかの期待を含みつつも、それが限りなく「零度」に近付くその時に発動する「機制」なのだろうか。だとしたら、それをあらわすにはどうしたらいいのだろうか。

「待機」とは何か。「待機」とは、身近な他者つまり他人との関係で測っていくものだろうか。《誰かを待っている》と言うその言明は、「期待」をあらわすとしても、一方で、《誰か分からないが誰かを待っていて、それが誰かはその時になってからようやく分かる》と言う言明が意味をなさないなら、やはり「待つ」行為は言語行為とその結果の整合性ではかるべきものなのか。しかし、《何か分からないが、その時を待つしかない》という心理状態が意味を持つ余地はあるのではないだろうか。「期待することなしに待つ」を超えた「待つ」ことの絶対性を信じて「待つ」に賭けることを。ヨブのように不幸でありながら神を信じさせられたように。ふつうには、「待つ」の絶対化は、「待つ」人そのものの内的契機でしかないので、他者との回路は「遮断」されている。それでも「待つ」しかないという状況は、言語行為とともにありうる。たとえば、言い知れぬ苦難からの脱出をねがうように。

【「待つ」ことの果て】

「偶然」に身をゆだねて、何かを「待つ」ものと「待たれる」ものとの関係性を廃し、誰しもがその場において何かを「待つ」でもなく「待たれる」でもない状況の積み重ねが、すでに「待つ」の彼岸にある(「待つ」ことをこちらから求めることはできないから)。あるいは「関係の自生的な力」にゆだねることにつながる。しかし、「偶然」を期待して「待つ」ことはできない。そうすると、「待つ」対象が明確になってしまって、そこでは時間性が生じる。あくまでも、過去からの積み重ねという、不在としての過去と現在との連続という(誤った考えの)流れではない他者との関係を「待つ」しかない。

「何かを待つのではない『待つ』」とは、時間性の外にあって、人をそれとは意識させない場に導く。もちろん<時>そのものを超越するのではない、ある反復行為の積み重ねが、時間性の痕跡を消失して人を「無感覚」に陥れ、その時になって神の恩寵のように、待っていた何かが訪れるかもしれない。それを「待つ」ことはできないので、人は「祈る」しかない。苦難にある人が「祈る」ことを繰り返すしかないように。「宛先不明」のその「祈り」を。「期待」を捨てて、不意に待っていたものが来るのを待つように、己を「開く」しかない。

【「待つ」を突き抜ける】

ブッツァーティの『タタール人の砂漠』という作品では、主人公ドローゴが、本当に来るのかどうかもわからない敵を待つことが描かれている。ふつうには、ここでは期待を持って「待つ」ことだけの虚しさが描かれているように語られている。しかし、その「待つ」ことを突き抜けると何処へ行ってしまうかを、うまく表現できているともとれる作品です。ドローゴはもちろん「待つ」者であるのだが、その未到来の敵というものを現在においてそういういつか来るものとして自明視する時、その敵はドローゴを待たせているのでもある。そうすると、ドローゴは「待つ/待たせる」という奇妙にアンビヴァレントな存在になり、彼が作品内でずっと待ち続けることの報酬として、物語の最後で彼がああなるのも、十分にうなずかれるというわけなのです。

「待つことの終わりが到来する保証のないところ、およそ『期待』ということがなりたたないところでこそ、ひとははじめて待つことをはじめるということだ。とどのつまり、待ってもしかたがないとじぶんに言い聞かせ、待つことを放棄するなかではじめて、待つということのほんとうの可能性が到来するということだ」(『「待つ」ということ』p183)

ドローゴの「ほんとうの可能性」が何だったのかはおいといて、人は、「待つことの終わり」の「保証」のないところで、普段はそのことを頭にはおかないで生きているように思える。ほんで、なにか極限状態に陥ったときにはじめて「待つ」ことの「期待」の薄さが顕在化する。その時に、「待つ」という態度を「放棄」して、どこまで「待つ」ことの「可能性」を「待つ」ことができるか。でも、ふつうはそんな状態に陥ることはないので、ノンキに生きるのがいいでしょうね。

【さいごに】

現在、私が強く待っているものは何かというと、それは花粉症からの脱出です。今年のスギ花粉は去年のものより10倍もきつくて(個人調べ)、さらに、これからそのスギ花粉よりもさらに10倍もの強度を持つ(あるいは質的に異なる)ヒノキ花粉の飛散がはじまるのです。洒落抜きで悲惨なのです。まあ避暑ならぬ避花粉できればいいのですが、そんなわけにもいかず、個人的理由で投薬治療などできないので、仕方なく5月の到来を耐えて待つしかないのです。今年の夏は去年ほどの猛暑にならなければいいなと期待するしかないのです。

(成城比丘太郎)

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