- 五重塔建立にかける「のっそり」の執念
- 人間のエゴとプライド
- 擬古典調の文語体は読み辛いかも
- おススメ度:★★★☆☆
こんなサイトをやっているが、一応「文学」というジャンルもごくたまに読む。共同執筆者の成城氏はよく読んでいるのだが、私の方はさっぱりだ。流石に漱石や鴎外のメジャー作品は読んでいるが、体系的な知識も何もない。では、なぜ、今回、教科書でしか名前を見たことが無い幸田露伴を選んだかというと簡単な理由である。表紙に書いてあった紹介文が面白そうだったからだ。以下、転載する。
技量はありながらも小才の利かぬ性格ゆえに、「のっそり」とあだ名で呼ばれる大工十兵衛。その十兵衛が、義理も人情も捨てて、谷中感応寺の五重塔建立に一身を捧げる。エゴイズムや作為を越えた魔性のものに憑かれ、翻弄される職人の姿を、求心的な文体で浮き彫りにする文豪露伴(1867‐1947)の傑作。
とくに途中のエゴイズムや作為を超えた「魔性のもの」というフレーズに惹かれた。ホラーサイトを運営していて、魔性という単語が出てきたら読んでみるしかないではないか。正直、本の薄さにも後押しされた。「夜明け前」を手に取った時の何とも言えない重責は感じなかった。
ところが、本を開けば文語調。日本語として美しいのは分かるが、悲しいかな、それを十分に読み解くだけの知識が足りない。例えば、冒頭はこうなっている。
木目麗しき槻胴、縁にはわざと赤樫を用ひたる岩畳作りの長火鉢に対ひて話し敵もなく唯一人、少しは淋しさうに坐り居る三十前後の女、男のやうに立派な眉を何日掃ひしか剃つたる痕の青々と(以下略)
単語と文体、両方の難解さで、文字が瞬時に像を結ばない。これは元の文章が悪いというより、この本を読むだけの準備が整ってないということだろう。まあしかし、日本語で書かれたものであれば(ふりがなもあるし)読めない本は無いというのが身上なので、このまま強引に読み進めていった。
話の筋は次のようにシンプルである。
概要にあるように谷中感応寺の五重塔が建立されることになった。五重塔は後々まで名前が残る大仕事だ。この寺の出入りの大工の棟梁・源太が見積まで出して話はまとまりかけていたのに、ここに「のっそり」と渾名される風采の上がらない貧乏な十兵衛が名乗りを上げる。彼は源太の世話になっているのだから、源太に譲るべきなのだが、どうしても話を聞かない。寺の上人が仲裁に入っても、源太が折れて共同作業にしようと言っても、それを拒んで自分の手で建てたいという。そして……。
と、言うお話である。結末は書かないが、不思議なほどハッピーエンドになっているので、後味は悪くないだろう。傷害事件も起きることは起きるが、真の悪人は登場しないし、それほど物騒なものでもない。では、肝心の「魔性のもの」は感じられたか、という感想を述べる。
一言で表すなら、それは「理屈を超えた執着」である。十兵衛は親方の源太、妻、お寺の上人など、彼のことを心から案じる人々の真心を踏みにじるかのような言動を繰り返す。「落としどころ」をまるで考慮しないのである。こちらがいくら相手にとって有利な条件を出しても「信念」というものを持ち出して、決して首を縦に振らない人種がいるでしょう。それによって身の破滅を招いても良いというタイプである。このタイプは大成するか零落するか、どちらにしても中途半端な人生は歩めない。この本では吉とでるのだが……。
で、結局怖いかどうかというと、考え込まざるを得ない。理屈が通じないというのは怖い。しかしお話は五重塔の建立の話である。サイコパスの伝記ではない。では、何があるかというと、多分人間の意志の力の不思議さ、言い換えれば魔力が描かれている。終盤に強烈な嵐の描写があるが、それに動じない十兵衛はある意味、悪魔的だ。絶対的な自然に対しての不遜な態度が、単純な「腕の良い職人は立派」的な価値観を超え、却ってうそ寒い気分にさせられるような気がする。「人間賛歌」ではなく「得体の知れなさ」が強調されているように思う。さっきも書いたが、自分の意志の通じない人間は怖い。不思議な読後感である。
と、いう訳で、ちゃんと読み取れた自信はないが、話の筋だけなら、追っていくのもそれほど難しくはない。一言一句正確に読み取ろうとすると大変だろうが……。
基本的に娯楽本の方が好きだが、たまににはこういう考え抜かれた小説を読んでみるもおもしろい、そんな感想だ。
(きうら)