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★★★★☆

凍(トーマス・ベルンハルト、池田信雄[訳]/河出書房新社)

投稿日:2019年3月11日 更新日:

  • ベルンハルトの長編小説第1作
  • 研修医が、とある画家を観察する
  • 何もかもが凍てついた集落での呪詛のごとき言葉
  • おススメ度:★★★★☆

【はじめに、本書紹介など】

トーマス・ベルンハルト(1931-1989)の『凍』(1963)は、「いて」と読む。凍てつく波動の「いて」。本書の装幀は白く、手触りはザラザラしていて、なんとなく凍てついた大地にこびりついた雪の塊のようで、表紙には「凍」の文字が大きく印字されているものの、その字が所々かすれている。本書の世界観をあらわすのにはシンプルでよい。内容自体も、それほど複雑ではないし。

ところで、先日読んだランドルフィは今年が没後40年にあたり、ベルンハルトは没後30年にあたるよう。個人的な予定として、今年は、没年数(や生誕年数)の区切りのいい作家の作品を重点的に読んでいきたい。とくに没後の年数は個人的に気になる。

ちょっとここで、現代のパスカルといわれている(と勝手に思っている)あるルーマニア出身の思想家(※)の言葉をいくつかみてみたい。

<話題の作家たちも、少数の例外を除けば、死ぬ前には必ず忘れられると思うとほっとする。文学上の死は、本来の意味での死よりもずっと残酷でもあれば、またずっと公平でもある。>

生前も話題になり、死後もこうして異国において話題になっている(と思われる)作家というのは、文学上の淘汰を免れたのか、それともそれだけ何かの普遍性を持っているのかわからないけど、よいことだと単純に思いたい。でも、「本来の」「死」自体が、その人自身の可能性を押しつぶしてしまうだけだとしたら、そこではもう公平さを感知できないのだけども。

<文学における晦渋は、繊細さの現れであるときもあるが、ほとんどつねに無能の(そしてペテンの)現れである。>

本書『凍』は、一読して「晦渋」さにまみれていると思われるところもあるかもしれないけど、それはけっして「無能」の仕業ではない。たしかに研修医の「ぼく」が観察する「画家」の箴言めいた言葉の数々は、研修医にその意図の把握を難渋せしめるのだけど、読者としては身につまされる部分もあり、また画家自身は「無能」だと思っているかもしれないけれど、その言葉は「晦渋」でもなければ、「無能」の枠にとどまるものではないと思う。画家のシュトラウホは、パスカルを愛読していて、もしかしたら、そのパスカルを気取っているのかもしれないけど。

「芸術家とは忌むべき天国的破廉恥さの息子や娘であり、猥褻の申し子だ。芸術家も画家も作家も音楽家も地球上で自慰行為を義務づけられた者たち、地球のぞっとするこわばりの芯、地球の潰瘍の周縁部、地球の化膿化の進行指標だ(略)芸術家は現代におけるおおいなる嘔吐剤だ」(『凍』p148-149)

シュトラウホが滞在する村には、彼によると「性的放縦」が見られ、「人非人」にあふれている。村にいる者たちは芸術家ではないが、彼(女)らを描く作家の手そのものは「猥褻」にまみれている。この画家の発言は、もちろん作家自身の言葉ではないかもしれないが、しかし、まだルーマニア出身の思想家に及ぶほどのペシムズムを持ってはいない。ここには矜持めいた自負が感じられると思う。「猥褻」さは、「自慰行為」によるものでもあるけれど、一般的に、芸術的自慰行為には、みっつの領域がある。よいものと、ふつうのものと、悪いもの。ふつうのものはすぐに忘れられる(あるいは見向きもされない)。よいものは、それが「自慰行為」と認識されても「猥褻」とは捉えられないという意味で現代的なもの。悪いものは、一番「猥褻」だけれど、一番後世に読み継がれる可能性を持っている。そういう意味で、よいものしかない世界というのは、「嘔吐剤」もうまれない透明な平凡さしかない。

<私は読書を繰り返しているが(中略)作品に重さを与えるものは何か。情熱あるいは病――これ以外には何もない。にもかかわらず、病者にしても情熱家にしても、なんらかの才能がなければならない。確かなのは、情熱も病もない才能は無、あるいはほとんど無であるということだ。>

確かなのは、シュトラウホにはゆがんだ「情熱と病」があること。内から外界をとざしつつも、固着した過去の呪詛を繰り返すそのさまには「情熱と病」がある。そもそも、カウンセリングよろしく研修医がききとる言葉は外に開かれている。残念ながら、研修医はそれらをききとるための臨床的な《待つこと》を、それらが自分に納得されるまでの時間を、《待つこと》ができなかった。彼の観察への動機は、医者のものではなかったかもしれないから。

というわけで、本書は、その「情熱と病」に満ちた画家シュトラウホの言動を味わうことができる。

(※)この思想家とはもちろんシオランのこと。<>内で引用した文章はすべてカイエよりのもの。ところで、なぜ私がこれほどシオランを引用するかというと、そろそろシオランの著作を文庫化して広く読んでもらいたいからというだけのこと(望みはうすい)。

【粗筋とか、感想とか】

本書の粗筋を書くことほど、意味のないことはない。意味がないのは、書いてもしょうがないからだけど、それでも一応書きます。本書は、研修医の仕事のことと、画家シュトラウホ観察の任を受けて出立するところからはじまる。研修医の「ぼく」が、まず始発の列車に乗るところから、「第二日」の記録が書かれるのです。こういった、列車内の情景から小説を始めるのは、読む方にとっても書く方にとってもとても読みやすく書きやすいと思う。その後、村に着いてから、研修医が画家シュトラウホの言動を逐一観察しようとする。

「任務は極秘」と「ぼく」は書いているけど、読むほどに、「極秘」を思わせるようななにか秘密めいたものはないように思われてくる。画家がいる村は雪に覆われた山あいの村で、画家に言わせると住んでいる人たちは「優等とは言えず」、「犯罪者の素質を持」つ犯罪者予備軍とされ、「奇形」さえいるという。そんな場所で「ぼく」は画家の観察というか、画家自身の生い立ちや思考を聞いて書きとっていく。画家は、すべてのものから「孤立状態」にあり、みじめな老いの状態にあり、自らの過去について呪詛をまじえて語る。

画家は決して「狂人」というわけではなさそうだが、「すべてが混乱の極みにある男」であり、「死への共鳴」のために「腐臭を放つ人間が催させる吐き気でしかない」末期の時を待っている。「死の準備の一環として(中略)信じられないくらい訓練された耳」を持つ彼は、「腫瘍の兆候」を自ら誤診して、「私自身から解放される」ための「死」を待っている人間である。「死病にかかった者は現実世界、自分の現実世界を信用せず、自分の死病という仮象世界に身を委ね」ている、そういう人間。これだけ見ると、絶望に彩られた人間かもしれない。

だが画家は、過去という時間に氷雪のように固着しているものの、新聞を開いては政治(外界)のことをよく知ろうとし、その話題を「ぼく」にふってくる人間でもある。「人生は、何をしようとだれであろうと、負けることが決まっている勝負だ。これは人間が存在する前から既定の事実だ。人類最初の人間もわれわれと同じような目に遭った。逆らえばもっと深い絶望の淵に沈むだけだ」という画家なのだが、なぜだか諦観は感じられない。これは、文言だけ読むと、明らかに若者へのメッセージのごとくに読める。「若者は、苦しむとは何か、苦しんで死んでいくとは何か、生きながらに身体が腐るとは何かを見ておかなければいけない」と言って、研修医を「救貧院」へと誘うあたりは、そうととれる。ここには、過去の戦災を含む(災厄の)ヴィジョンと、それらから得た教訓とも読める。

「夢の表象すら凍え死ぬ」という場では、夢という未来に関わるものを待つことはできなくなるのか。だから画家は過去に執着するしかないのか。そうだからこそ、研修医の「ぼく」は、画家の言っていることが時に理解できなくなる。「夢は人間には見ることのできない、意識を遮断した上で進行する知覚によりかろうじて知覚可能なものである」ものと「ぼく」は考えるのだけれど、画家と関わってくるうちに、その「夢」が、なにもかも凍らせるこの地において、その機能を減退させるのではないだろうか。画家は「言葉をまるで沼地からかき出すように自分の身中から掻き出」し、そのせいで傷つき血まみれになるのだが、それは過去の氷ついた記憶を掘りだすためでもあろう。その言葉に「ぼく」は、徐々に「森の中をゆくように」、混迷の道連れになりかける。

「自分の書きとめたものをひろい読むと、すべてはなんと異なって描かれていることか。すべて全然違う。というのも書きとめられたものと事実は一致しないからだ。何ひとつ正当性を主張できない。精確さもだ。ある明確な事柄について知りうることはすべて精確に記録し、間違いを最小限にくいとどめるようにしているにもかかわらず。それでも間違っている。異なっている。ということは真実でない」(『凍』p145)

「精確」に観察するよう要請されたのに、書いていけばいくほどに、「精確」さへの道筋はそれていって、「暗闇の底なしの無知」に乗じて書いているだけの「ぼく」なっていってしまう。では、ここに書かれている画家とは何なのだろうか。「ぼく」は画家の「表象世界」に、凍てついた心象に捉われてしまったのだろうか。「徐々に自分の思考によって自己の殻の中、『途切れなき雪』の概念の中へ閉じこめられていっている……このような事態の進行を『物語』と呼ぶことのないよう注意すべきだ」と画家が言う時、研修医の「ぼく」とこれを読む者たちは、何かの「物語」を読みこもうとし、そのことに捉われていかないように注意を促されているのだろうか。とくに、最後の「ぼく」の手紙や、簡潔に記される画家に起こった事実の体裁を読むと、そう思わないでもない。「ぼく」が書いていたものと、事実との懸隔を思わせないでもない。

【まとめ】

画家が言う、「われわれはどこへ通じているか分からない幻の橋を覚悟して渡るように、痛みを覚悟して引き受ける」ような覚悟がいるかは分らないけれど、読む人それぞれの「幻の橋」を頭に描いてそれを進むように本書を読むといいかと思われます。

ちょっと暗鬱なかんじの作品なのかもしれませんが、研修医の「ぼく」や画家シュトラウホだけでなく、滞在する村には、他の人々(女将、皮剥ぎ人、技師など)が登場して、結構そこらへんはヴァラエティがあって、おもしろいです。あと、数々の箴言を読むように何度もかみしめるように読むと、味が出てくるでしょう。

(成城比丘太郎)


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