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最近読んだ本【2019年6月】~読書メモ(45)

投稿日:2019年7月5日 更新日:

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【6月に読んだ本・読み終わりそうな本】

・『静寂と沈黙の歴史』(アラン・コルバン、小倉孝誠・中川真知子〔訳〕/藤原書店)
〔「ルネサンスから現代まで」の欧米の、文学・思想・宗教から、「静寂と沈黙」がどのように扱われてきたのかをみる。「沈黙」とは、黙ることを強制されたもので、「静寂」とは、うるさい音やざわめきがないことを意味しているよう。たんに「静寂」といっても、そこには豊かな思想をはらむ余地がある。いろんな思想や、文学の出所として「静寂」は非常に重要だと分かる。一方、「沈黙」はただ黙っているだけでなくて、そこには何らかの意味が発生している。「沈黙」はたとえば忍苦のしるしがあるのかもしれない。欧米って、自己主張が激しいイメージがあるけど、また同様に「静寂と沈黙」が重視されているのだと思われる。たとえば、日本ではあまり重視されない黙秘権などが当然のものとして欧米とかでは認められているのはそのせいかもしれない。どうでもいいけど、ちょっと今の日本はうるさすぎるのかもしれない。もちろん「静寂」は好まれているけども、「沈黙」することは時に(大阪では)あまり推奨されない気がする。
もうすぐ、ソロー『森の生活』を読み終わるところだけども、そこでは、ソローがけっこう饒舌に語っている。もちろん彼は基本独りで過ごしたので、一日のほとんどを静寂の中にいたのだろう。そのせいか、よくモノを見て、よくいろんな音を聴いている。「静寂と沈黙」とは、自らの内省にとても重要なことなのだろう。
またショーペンハウアー大先生は『幸福について』で、以下のように書いている。

「沈黙は賢明さを本質とし、言明は虚栄心を本質とする。しばしば、どちらの機会も均等にある。だが私たちは、沈黙がもたらす永続的な価値よりも、言明のもたらす一時的な満足を優先させることが多い。(中略)考えることと語ることとの間に、大きな隔たりを保っておくのが賢明である。」(鈴木芳子・訳)

この引用の他にも、ショーペン先生は「沈黙」のもたらす実利的な有用性にもアレコレと言及している。「静寂と沈黙」の中でもたらされる思考は、このブログでもけっこう役に立っている、はず。〕

・『七つのからっぽな家』(サマンタ・シュウェブリン、見田悠子〔訳〕/河出書房新社)
〔アルゼンチンの現代作家の短編集。なかなかホラーやミステリの妙味もある奇妙な感じの短編集。日常の光景にちょっとした違和が足されることで、読んでいるとなんだか落ち着かない感じになる。狂気の一歩手前で、取り巻く世界の事象を手探りで綴っていくような感じの文章。ホラーではないけど、家や家族をめぐる短編は、ミステリの様相も読みようによっては帯びてくる。アルゼンチンの女性作家には、こういった書き手が増えてるんかな。
他人の家に強引に入ってモノを物色しだす母のことが語られたり、裸で走りまわる父母のことが語られたり、少女の視点からのちょっとした出来事なんかが、派手さはないものの、不安を伴った読書感覚をもたらしてくれる。
とくに「空洞の呼吸」という一編が読みごたえがある。これの内容は書かないけど、読んでいると落ち着かない気分で、読みようによってはミステリとしても読めるかもしれない。
訳者解説によると、著者は幼少期に精神科にかかって、正常かどうか調べられたらしい。というか、アルゼンチンでは「思春期の子どもが精神科医に通うのはかなり普通のこと」だそうで、著者とほぼ同年代の私からしたら、日本は遅れてたなと改めて思った(訳者のいう「かなり」とは、かなり含みのある表現だが)。私が十代の頃は、精神科(メンタルクリニック)にかかるのは、「問題がある子」と見做されていた(経験談)。問題がないことを確認するために通院しただけでも、変なこと言ったりする大人がいたものだ。現在ではそうでもないと思うが、まあそれでも通院が推奨されてるとは思えないが。〕


・『アメリカ人のみた日本の死刑』(デイビッド・T・ジョンソン、笹倉香奈〔訳〕/岩波新書)
〔全世界のほとんどで、実質的に廃止(停止)されている死刑。その日本の死刑制度を含む刑事司法のありようを、アメリカ人の著者がアメリカとの現状を比較してみていく。この著者はどうやらフツーの日本人より日本の司法制度にくわしい。アメリカの州の一部にも死刑制度は存置しているけど、なぜ存置しているかというそのありようは日本とは違うので、アメリカと日本の死刑制度を単純には比較できないと思われる。著者によると、そのアメリカでも将来的に死刑制度は廃止の方向に向かっていくという。その時に日本がどう判断するか分からないけど、世界中から制度としての死刑がなくならない限り、日本はというか日本人は積極的に死刑を支持していくと個人的に思われる。そういう意味では、著者の希望通りにはならないんじゃないかと、私は悲観している。
先年オウム真理教がらみの一連の事件で死刑が執行されたが、それに対して異議を申し立てたのはほんの一握りだろう。とある世界的な日本人作家も「しかたないこと」のような、リベラル(かどうかわからないけどそれ)をもって自認しているはずの作家としては愚劣な発言をしていた。なぜ愚劣かというと、「基本的に死刑には反対」というならば、こういう窮極的な極限状態においてそれを堅持しなければオピニオンリーダーとしては失格だろうから(それを望んでいるかどうかわからないけど)。でもこのことはおそらく国民の総意を代弁したものかもしれない。まあ、大新聞もまともには死刑廃止を取り上げていないと思うので(いろんな事情があるから)、国民の総意ならば仕方ないか。
そんななかで、唯一死刑廃止に持ち込めるのは、「政治的エリートのリーダーシップ」によるしかないと著者はいう。しかし、ここ最近の政権は、国民の意見の取り入れに汲々としている面があるので、これは現実味が薄い。本書にあるように、国民の総意を変えるには、政治的リーダーによるトップダウンからの下知しかないというのが本当なら、おそらく数十年は何も変わらないだろう。まあそれはそれでしかたないかもしれないけど、それならば、国際空港やホームページなどに、「ようこそ死刑のある日本に」とか「日本は安全な国です(でも死刑はあります)」とか「日本は美しい国です(でも死刑あるけどね)」とか「日本人はとても親切です(でも死刑を支持してます)」といったような歓迎のコトバを数ヶ国語で張りだしたらいいと思う。それくらいすればいいと思う(これくらいできなければ死刑廃止すればいいと思う)。〕

・『仏教抹殺』(鵜飼秀徳/文春新書)
〔副題は、「なぜ明治維新は寺院を破壊したのか」ということで、明治維新の時に起こった廃仏毀釈を、本書では取り上げている。タイトルにあるような、「抹殺」が起こったのではない。「抹殺」の字義は、広辞苑で引くと、「事実・存在などを否認し、完全に消し去ること」とあるけど、いくら神仏分離や神仏判然令の徹底が軌道を外れてヒドイことになったとしても、仏教は「抹殺」されていないので、このタイトルはちょっとやりすぎかもしれない。せいぜい弾圧とかでよかったのではないかとも思うが。
まあそれはそれとして、本書では、著者が全国各地の廃仏毀釈のヒドかった地を訪れて、話を聞いたり、破壊された寺や破却された仏像の痛ましい跡をみたりしていく。だいたいにおいて、破却率の高い地域では、神仏分離を拡大解釈して暴挙に走ったとしている。その中で特異だと思うのは、鹿児島県(薩摩藩)の例だろう。なぜか薩摩藩では徹底的に寺が破壊され、島津家の菩提寺までも破壊され、もちろん仏像・仏具などもすべて破壊され、僧侶は還俗させられ、一時薩摩では寺と僧侶がゼロになった。その理由は推測として色々書かれているけど、なぜそうなったのかはいくら読んでもわからない。何か他の地域とは違う理由があるのかもしれないけど、現在では史料などがほとんど残されていないようなので、実状は今でもよくわからないらしい。そういう意味では、鹿児島(薩摩)だけでは「仏教抹殺」といえるでしょう。
ところで、奈良の興福寺も廃仏毀釈の被害を受けた。興福寺は鹿を手厚く保護していたんだけども、それらも襲われて食されたらしい。奈良公園で今それをやったら捕まるけど。ところで話はそれるけど、近年奈良市では増えすぎた鹿への対策として条件付きで(外へと出た鹿を)駆除しようとしているけども、この鹿たちは農業で食っている人にとっては不倶戴天の敵である。まさに仏敵という認識に近いかもしれない。鹿による農業被害(コメ農家への被害)は猿とともにヒドイものがあって、隣の三重県などではふつうに駆除されておいしく食される対象になっている(猿は食わないですよ)。奈良市以外の奈良県内でも、基本的に駆除の対象になっていると思う。仏教への弾圧には、当時の堕落した一部僧侶への憎しみがあったかもしれないと著者はいう。鹿への憎しみも農家にとっては同じものかどうか。私自身も以前小さな菜園を持っていたのだけども、野菜などが育つ頃に猿や鹿の被害にあい、なんで動物に食わせるために育ててんのやろと、数年で辞めた。
さて、話戻ります。著者は現役の僧侶でもあるので、本書は徐々に「仏像破壊などは伝統文化の破壊だ」というトーンを帯びる。それはそうなのだろう。しかし、もしその時代に行って「これらは伝統文化の破壊ですよ」と言ったとしても、「じゃあお前ら未来人は、これから伝統になるはずものを大事にしているのか」と反論されて何も言えなくなるだろうと思う。たとえば、現代の建造物や創作物を未来への伝統として遺すだろうかというと、どうなんだろうか(以前関西では、とあるアニメの舞台になった小学校が取り壊されそうになったけど反対運動がおこり今でも無事に存在しているけど)。まあ、どこかのなんとかタワーが老朽化したりなんかしたら、危ないからと言ってふつうに解体するだろう。ほんで、私の好きな競馬でいうと、現在色んな場所に競馬場跡地がほぼ何の痕跡も残されずにあるようなのだけども、それらも競馬を嫌いな人からしたら、壊されて当然と思うだけだろう。仏教と比べるのはどうかと思うけど。〕

(成城比丘太郎)





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