- 「三浦文学の最高傑作」
- 大飢饉による共食いの実態
- 記録のような小説
- おススメ度:★★★☆☆
2020年は、作家三浦哲郎(みうらてつお)の没後10年にあたります。三浦哲郎は青森県八戸市生まれですが、青森県出身の作家としてはすでに知名度が低くなっているような気がする。最近、石坂洋次郎の見直しが進んでいるみたいですが、この三浦哲郎に関してはとくにそんな動きはないと思う。三浦哲郎の家族関係の来歴はけっこうものすごくて、ウィキペディアをみてもらえばわかりますが、彼の兄ふたりは失踪し、姉ふたりは自殺しています。三浦哲郎は、こういった血族のことを書いたりもしてますし、東北地方を舞台にした歴史小説も書いたりしましたけど、この「おろおろ草紙」は故郷のことを書いたものの中で、おそらく一番強烈なのではないかと思います。
「おろおろ草紙」の舞台は、江戸時代の天明大飢饉が襲った奥州八戸藩です。ある隊士が記した記録を基に、「酷薄無残な見聞の記述」を心がけているかのごとく、けっこう淡々と飢饉による共食いなどの様子が描かれています。飢渇にあえぐ人々、路傍に倒れた餓死者の食べようとする野犬、肉をそがれた骸、自分の子供を殺してその肉を食う親たちなどなど。人肉食をおかしたものは捕えられて斬首になったり、磔になったり。その磔の刑の様子がかなり克明にも描かれています。また、食うものがないので盗みをはたらく者も出てきますが、その行為がばれたものは川に投げ込まれるという私刑を受けました。こういうリンチはある程度見逃されたそうです。
よく人肉食に関する作品はありますが、それらはそういった行為に及ばざるを得ない状況と、それに対するなんらかの葛藤なんかが書かれますけども、「おろおろ草紙」では、どちらかというと、こんな事実がありましたといったかんじで淡々としています。けっして少なくない人々が人肉食に陥らざるを得なかったのですが、そんななか、人肉を食うことに対しては、女のほうが肝が据わっているように描かれています。
おもしろい(?)描写としては、この世の名残にと三升もの米を食って胃を破裂させて絶命した者がいたという挿話や、商家など家の前に骸が置かれるとそれを取り除くために費用がかかるので朝早く起きてそれらを別の家の前においたというどこかで聞いたような挿話があります。物語最後の描写としては、東北のちょっとした自然の光景が挟まれて終幕します。このあたりの、人為と自然との対比は、三浦文学でよく見かけるものです。
その他にも、飢饉のときにおけるいろんな残酷話(?)が挟まれて、なかなかに味わい深い作品です。
「一口にいって、江戸時代の民衆は慢性栄養失調であったといえる。今日の栄養常識からいえば、これでは生命を維持していくのがやっとであり、とても仕事や労働に従事できる栄養量ではない。とくに、こうした栄養失調では、ひとたび飢餓や疫病の発生にあえば、ひとたまりもない。飢餓によって腸内菌の変動が起こると、外来の病原菌を受け入れやすくなり、また栄養失調のため病原菌にたいする免疫グロブリンの生産が低下し、そのため抵抗力が弱くなる。江戸時代に頻発した飢餓には必ず急性伝染病が併発し、大量の疫死をまねいているが、それは民衆の栄養状況にも一因があった。」(立川昭二『江戸病草紙』)
さらに上掲の本では、江戸時代の「庶民」は現代必要カロリーの半分くらいの摂取量で、「農民」に至ってはさらにその半分くらいであったという。このことが本当であったならば、「おろおろ草紙」で書かれた、栄養失調により身体に変調をきたしたという描写と、東北では神聖視されていた馬を食うことでその状態から脱したという描写には何かしらの真実味が感じられる。それから、人肉食に至った者も相当いたのではないかと推察される。現実の八戸藩の惨状はひどかったようで、おそらくこの小説に書かれていないことはもっとあったかと思われます。疫病の発生など。
天明の大飢饉は、天災によるものも大きかったようですし、寒冷地に強いコメなどなかったから大災害になったのでしょうが、そこには当時の(幕府や藩の)失政も関わっているかもしれません。そういう意味だと、この大飢饉は、ヒュームの書く「自然的悪〔非人為的な悪〕」であるとともに、「道徳的悪〔人為的・意図的な悪〕」も少しはあったのかもしれません。ここで時事的な問題に触れるのはなんですが、現在の新型ウイルスについては「自然的悪」であるといえるでしょう。もし今、地震などの災害が起こった際には、もっとひどいことが起こるかもしれません。そうなっても為政者側が「道徳的悪」をおかさないように、あらゆる状況を想定しておかねばならないんでしょうが、それはちょっと欲張りな考えか。少なくとも、現時点(の日本)では、この状況は「道徳的悪〔人災〕」といえるほどのものはないので、まあ、いかに今まで感染症の(おそろしさの)ことなど考えてこなかったという、(私も含めての)多くの国民のノンキさがあらわれたということでしょうねぇ。現在、日本では感染症関連の本がよく購入されているようですし。
※参考文献:ヒューム『自然宗教をめぐる対話』(犬塚元・訳)
(成城比丘太郎)