- 狂犬病にかかった犬がもたらす恐怖
- 恐怖を中心にして描かれる家族のありよう
- 日常に潜む崩壊は、ふとしたときに身を寄せてくる
- おススメ度:★★★★☆
一か月前の投稿で、「スティーヴン・キングはあまり読む気がおこらない」と書いたのですが、その直後に、生来の(?)ひねくれ根性がむくむくとわきあがって、急に読みたくなってしまい、さらにそこへ、先日読んだ『All Over クトゥルー(Ama)』に載ったキング作品の項目を読んだことが追い討ちをかけ、もうこれは読むしかないと、とりあえず購入しておいた本書を手に取りました。本当なら、その「クトゥルー本」に載っている本を読みたいところですが、手持ちにないので、いずれ読んでみたいです。そういった意味では、このクトゥルー本には感謝(?)したいです。
さて、この『クージョ』は、残念ながらクトゥルー的要素はまったくありません。それどころか、超自然的モチーフもあらわれず、まったくのモダン・ホラーといったかんじです。物語のはじまりで触れられる、舞台となる町で過去に起こった殺人事件の、その殺人犯(自殺した)の悪霊めいたものが、のちに狂犬病にかかった大型犬にのりうつったかんじになり、それが登場人物を恐怖に追い落としもします。また、ある女性の罪の意識がその犬に投影されて恐怖をよびもします。それらがある意味「見えない」ものとして効果的な演出をとげています。私としては、むしろ、変な(?)幽霊ものなどよりもよほどおもしろく読めるところでした。この感じは、シャーリイ・ジャクスンのものにも通じるような心理的な恐怖を感じます。
物語の舞台は、メイン州のキャッスル・ロックという小さな田舎町。時は1980年。中心になるのが二つの家族。ひとつが、トレントン家(ヴィク、妻のドナ、息子のタッド)。もうひとつがキャンバー家(ジョー、妻のチャリティ、息子のブレット)。キャンバー家の飼い犬である「クージョ」が、この二つの家族を最後には分断してしまい、一方は深い悲しみに陥り、もう一方は解放を伴う新しい生活を迎えるのです。そうです、この話は、家族のありようを細かい装飾を用いて描きながら、それぞれの家族が一匹の犬によってどのように変容していくのかを対照的に描いたものとも言えます。
普通の生活に潜むいろんな不安や危機を多様に描きながら、そこへ一匹の大型犬を放り込んだ結果さらなる危機に見舞われる様が描かれるのですが、この犬が狂犬病にかかっていることからわかるように、生半なスリルではありません。人間が狂犬病を発症したらほぼ100%の割合で死に至るのですから、そこらのお化けより怖いことでしょう。そして、人を襲うことに意識の向いた大型犬ですから、噛まれるどころか、噛み殺される危険もあるのです。このクージョの意識が徐々に変質し、登場人物のひとりに殺意をロックオンして、「口からよだれが糸を引く血だらけの殺人機械」となり果てたさまは、ほんま怖ろしいです。このところは吉村昭『羆嵐』よりも怖いですね。
真夏の車内にとり残され、クージョの標的にされてしまったという絶望的な状況を、さらに外的な状況が追い討ちをかけます。まるでひとつひとつのピースが埋まっていくように、周りの状況や、関連する人々の意識や行動が、この孤立状態を後押ししていくのです。なんの変哲もないような、いや、一読して無駄とも思えるような描写が、実は、孤立ゆえの絶望感をあおるものだとしたなら、なかなかのストーリーテリングですね。
あと、おもしろいのが、犬が殺人マシーンになり果てるだけではなく、そこまでの過程で、犬自体もある意味悲劇の一員であることが示されることでしょうね。犬が不可避的に人を襲わざるを得なかった、そのこともかなしいところです。
一応、当たり前のこととして書いておきますと、狂犬病の予防接種はきちんと受けましょうと、といういことでしょうね(戒め)。
(成城比丘太郎)