- 「ぼく」ことシンクレアの「魂の遍歴」。
- デーミアンという少年に導かれる「ぼく」。
- BL小説として読もうと思えば、読めなくもない。
- おススメ度:★★★☆☆
本書は、エーミール・シンクレアが語り手となって進められる、自らの「魂の遍歴」を綴ったものです。「魂の遍歴」とは、一体何なのでしょうか。簡単に言うと、『デーミアン』におけるシンクレアの自己形成に関わることなのでしょう。専門的な解説はさておき、本書には、シンクレアが様々な衝動を抱きながら、どのような人びとに出会い、彼らにどのような影響を受けて、自らの思想(考え)を築き上げていったかが書かれています。シンクレアの孤独で内省的な思春期のもやもや、鬱屈している性のうずき、などといった彼の「魂」を形成しているものがどう変化していったか、ということを読んでもらえればいいかとは思います。
幼い頃(十歳)のシンクレアは、既に、ある世界認識を持っていました。生家に代表される秩序だった世界と、恐ろしく陰惨で謎めいた世界と。いわば、明/暗の世界でしょう。この二つの世界に交互に足を踏み入れながら、シンクレアは徐々に成長していきます。その時に、彼を導いていくのが、デーミアンなのです。デーミアンに、とある危機を救われたシンクレアは、その後デーミアンとの対話を通して、特にカイン(旧約聖書)の価値の転倒を通して、物事の見方を知るのです。それは、「泉(=ぼくの若い魂)に石が投げ落とされた」(p53)感じだったのです。
この後、デーミアンとは一時没交渉となります。シンクレアは、酒場に出入りするようになり、自らを悪の世界の住人と任ずるようになったりします。そして、彼はある一枚の絵を描き、そこにデーミアンの姿を見出すようになります。いつでもデーミアンが彼の心にはあるようです。もっというなら、デーミアンは、彼の「守護霊」であり、なおかつ彼自身でもあるようです。この辺りを読むと、デーミアンとは、ある意味超時代的な存在ともいえるのではないでしょうか。この作品を読む人の胸の裡にも潜んでいるかもしれない人格として。もっというと、デーミアンとは、幻想小説の登場人物とも読めます。
その後、ピストーリウスというオルガン奏者との出会いを経て、後半は、またデーミアンとの交流になるのですが、ここでシンクレアに影響を与え、彼を導くのは、デーミアンの母であるエヴァ夫人です。この後半部分は、彼が求めたものとの待望の出会いとなります。
最初にも書きましたが、読もうと思えばBLものとして読むこともできます。私は、何だかそのような雰囲気を感じながら読んでいたら、訳者自身が「訳者あとがき」において、「いまで言うBL(ボーイズラブ)の匂いを嗅ぎとった」ことがあり、「訳しているあいだ、そのニュアンスをだしてみたい誘惑に駆られたが、最終的にセーブした」と書いていて、やはりなと、少し笑ってしまった。しかし、訳者がセーブしようが、本文庫のカバーイラストがそれを(いい意味で)裏切っています。実際に見てもらえれば分かりますが、このイラストは、シンクレアとデーミアンの二人の関係性をあらわしているようです。またこれは、本作ラストの印象的なシーンをもあらわしているのでしょう。
訳者によると、この翻訳には構成の変更や、意訳した部分もあるようです。それがいいのかどうか判断できないのですが、読みやすいものであることだけは確かです。今現在若者である人はもちろん、(多少の)不安や悩みを抱えている大人にも読むに堪えうるものになっていると思います。
ちょっと余談ですが、この作品には、デーミアンと親しく歩く日本人が出てきますが、最終的にその日本人は、デーミアンとの拳闘勝負に負けて、その地を去ります。これは、台頭する当時の日本をぶちのめしたもの、なんていう読み方は穿ちすぎでしょうか。まあ、どうでもいいですが。
(成城比丘太郎)