- 中国故事からとった、美しくかなしい掌編。
- 何かを待つということは、つらい。
- 青空文庫の中でも、とても簡単に読める作品。
- おススメ度:★★★☆☆
タイトルの「尾生の信」とは、「ばか正直に約束を守るだけで、融通のきかないこと。愚直。」(『大辞林』)とあります。あらすじは、短いものなので、詳しく紹介するまでもないのですが、簡単に言うと、「尾生」が、「女」の来るのを「橋の下」で待っていて、そのうちに……どうなるかは読んでください。
芥川は、箱庭でえんじられるかの如き、一幅の絵巻物に描かれたような情景を、夢のように書きとったようです。また、現代だと、幻想的なアニメーションの一コマのような趣もあります。芥川は、作品の最後に、「私は」「何か不可思議なものばかり」を待っていると書いていますが、これは、小説にいかせる何らかの着想のことだろうか。天から降ってくる創作のアイデアを待つ身は苦しいのだろうな、と勝手に忖度します。
この紹介文だけでは短すぎるので、穴埋めに、私が昔書いた文章を載せます。
タイトル:「待つ」
いつも、僕は迷路の中を歩くように生きてきた。迷宮ではなく、迷路。それは、人をのみこんだまま蠢く、いのちある壁の巣。その出口は、僕のことを待っているわけはない。絶えず、その位置を変えては、迷い込んだものをからかっているのだろう。だから、僕はいつまでもさまよい続けるしかなかった。出口との偶然の出会いを期待して。あるいは、まだ入り口に立っていた、あの頃に戻れるかもしれないという、淡い期待を抱いて。とにかく、僕は歩き続けたのだ。しかし、薄気味悪く、周囲に屹立する壁を前に、僕はとうとう断念せざるをえなかった。ああ、もう、待つしかないのだろうか。
僕の歩みは、次第に強弩の末となり、一歩進むのに、一日を要するようになった。高い壁の上を太陽が一周してその姿を現すまでに、壁と並行する僕の視野は、全く変わることがなくなった。凪いだ風のにおいも、壁をつたう蔓のさざめきも、昨日と変わらなかった。もうここで出口を待とう。出口とは、入口のことだったろうか、それとも別のものだろうか。なにせ、ここへ侵入したときには、出口のことなど考えていなかった。迷路を征服することだけだった。出口はその結果でしかなかった。
出口とは、もしかしたら、死のことかもしれない。僕は、こう思って自分をなぐさめた。もし、出口が死であるというのなら、このまま、それを待つより、さまよい続けていたほうがよいのではないだろうか。今さら、入口を探すわけにもいかない。この、迷うことを知ってしまった、今の僕にとって、迷路の外は生きるに値しない場所かもしれない。生きるに値しないとは、しかし、なんだろうか。本当に、僕は壁の外で生まれたのだろうか。もし、そうでないなら、ここが僕の夢ふく場所じゃないだろうか。そうだ、ここがそうなのだ。
ならば、もう迷うことはない。出口をじっと待つこともない。迷路をいけばいいのだ。いや、もう迷路もいらない。幸いにも、天は開いている。僕には空があるじゃあないか。それがいいのかもしれない。空をいくという選択肢が残されている以上、なぜだか、この迷路が、やはり仮の誕生地のように思えてきた。もしかしたら、このままじっと待っていれば、背中に羽が生えてくるかもしれない。その時こそ、飛翔の時だ。あるいは、あと何百年もすれば、僕の背丈も伸びて、壁を越えられるかもしれないし、僕のからだに生えた苔が、僕の身体を押しあげるかもしれない。僕は、挑戦的に寝転んだ。目の前には、青く続いた空が広がっていた。
(成城比丘太郎)
(編者注)評者の意をくんで青空文庫にリンクを張ったが、芥川作品に興味がある方は下記から他の作品も楽しんで頂ければと思います。