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ホラーを中心に様々な作品を紹介します

それぞれ

年末年始に読んだ本(2019年~2020年)

投稿日:

   

  • 年末に読んだ本
  • あるいは年始に読むつもりの本
  • 読んだ新書について
  • オモシロ度:それぞれ

【はじめに】

今回の投稿はおそらく年明けになっているかとおもいます。とくにあいさつなどありませんが、私も含めておめでたい考えの人が多ければよいと思います。今年の大目標などありませんが、より多くの本を読んで、月に2~3回くらい投稿できればと考えています。まあ、この一年に関しては、いかにできるだけ怠惰に生き延びられるかどうかという感じです。何もないので、これで記事を終わります、と書くと投稿する意味がないので、年末に読んだ本あるいは年始に読むつもりの本についてできるだけ簡単に書こうと思います。

今回の年末年始にかけては、国内外の小説(文学)を読むつもりで、何冊か手元に並べています。とりあえず年末には現代の海外文学を読みました。年明けには日本の小説を読むつもりです。というわけで、ここでは、読んだ本についてだけ取り上げます。

【海外現代文学】

短篇集としては、ポルトガルとイタリアとロシアのものを読んだ。2019年はいろんな海外小説がそれなりにヒットしたけど、ヒットしすぎて読むのに二の足を踏んでしまい、気付いたら読む機会を逸してしまった作品もあった。要は、今は気分が乗らない。書名はあげないけど、それらヒットした作品は何年かして世間の熱気が冷めてから読むつもり。では、以下に、それぞれの簡単な感想を書きますが、めんどくさいので翻訳者は書きません。あしからずご了承ください。

それから、短篇集を読む間に、『アルテミオ・クルスの死』(フエンテス)(Amazon)を挟みつつ読んだのだけども、それまでに短編ばかり読んでたので、そのせいか、この長編小説は内容的に数十ページにおさめられるんじゃないかと思った。おもしろかったけど、なんか冗長だなと思ったのも事実。いや、おもろかったけど。

【ポルトガルの文学】

・『ポルトガル短篇小説傑作選』(ルイ・ズィンク+黒澤直俊〔編〕、現代企画室)

「現代ポルトガル文学選集」というシリーズの1冊。2019年にはペソアの本も新たに出版されたり増補版がでたりと、今私のなかでそれなりに文学的に注目している国。この短篇集には、現代ポルトガルの状況が、この国のもつ歴史との関わりで描かれているという印象。ポルトガル語は九ヶ国で公用語となっている(ポルトガル、ブラジル、アンゴラなど)。その広い範囲を含む様子は文学として『ガルヴェイアスの犬』でも書かれていた。ポルトガルは四十数年前まで独裁政権で、アフリカ(植民地)から撤退したのはヨーロッパ各国の中でたしか一番遅かったはず。

そのアフリカとの関わりでいうと、「少尉の災難――遠いはるかな地で」(マリオ・デ・カルバーリョ)は、アフリカの戦場で地雷を踏みつけた少尉の災難が滑稽に描かれている。
「ヨーロッパの幸せ」(ヴァルテル・ウーゴ・マイン)では、ヨーロッパに幸せを求めてやってきた(移民?)黒人一家のことが書かれ、「植民地のあとに残ったもの」(テレーザ・ジェルサン)では逆に、アフリカから引き揚げたある女性の日をあつかったもの。

その他幻想怪奇小説のようなものもある。

「ヴァルザー氏と森」(ゴンサロ・M・タヴァレス)では、森の新居を建てたヴァルザー氏のもとへ、修繕のために色んな業者らしき者たちが押しかけてくるという内容。いうほどのイヤさはない。
「美容室」(イネス・ペドローサ)では、男性や大人によってコントロールされてきた女性の語りですすむのだけども、この女性美容師はハサミを持ちながら自分の夫殺害を語る。これは誰に向かって言っているのか?そう考えると、サイコホラーのように読める。

その他、結構幻想文学として読める作品が多くて、よかった。

【イタリア現代文学】

・『どこか、安心できる場所で――新しいイタリアの文学』(関口英子/橋本勝雄/アンドレア・ラオス〔編〕、国書刊行会)

これは現代イタリアの作家13人の作品が収められている。このうち11人は日本語で初紹介だそう。どうでもいいけど、日本語でしか読まないってのは、個人的にどうなのかとは思う。とはいうものの、読んでいると日本語だろうか原書だろうがどうでもええわってなるのだけども。それは翻訳側ががんばっているからか。

このイタリア現代文学短編では、ポルトガルのもの同様に、移民(や人種差別的な)問題などが取り上げられている(イタリアの方が多いかも)。現代欧米文学ってのは、いい意味で過去のツケを払わせられているかんじの作品が多い印象。しかし、その反省もものかは、今は新たな思想を全世界にパターナリスティックに(無自覚に?)配信してるけども。

さて、イタリア現代文学でも、ちょっと前のイタリア文学っぽいなと思うのは、都市生活のことを幻想小説風に書いているものが多いという印象。もちろんそれとは反対に、田舎も出てくる。

(不法滞在者を含む)移民の問題でいうと、「エリザベス」(ダリオ・ヴォルトリーニ)には、ナイジェリア人女性が出てくる。その作品で「僕」は、その女性をたすけるのだけども、そこは都市部である。なんか都市生活者の不安というのが、とくにイタリア文学では強く出るという印象。

「捨て子」(ヴァレリア・パッレッラ)にも移民者らしき女性が出てくる。その女性はレイプされて修道院で子どもを産むことになる。修道女のシルヴィアは、いなくなったその女性の子どもを自ら育てるために母親になる。つまり、未婚の母すなわちマリアとして生きることになる。以前読んだ本では(失念した)、処女懐胎はもともと未婚の母という意味だったそうだが。

また、「わたしは誰?」(イバージャ・シェーゴ)では、ソマリア出身の女性から見たヨーロッパおよび母国のことが書かれている。

幻想的な作品も多い。

その中で、「愛と鏡の物語」(アントニオ・モレスコ)は、カルヴィーノ『むずかしい愛』に入っていてもおかしくないと思うほど、個人的に好きな作品。内容としては、ある団地に住む作家が、住民たちと交流する話。で、その作家は向いの部屋に映る自分の姿を見て、さらに自室にある鏡に映る向いに住む女性との来るべき邂逅を夢想する。「君の瞳に恋してる」ならぬ、《鏡に映る君に恋してる》という感じ。

【現代ロシア短編集】

・『はじめに財布が消えた・・・』(群像社)

ちょっと書くのに疲れてきたので、ロシアのものは簡単に。

ロシアのものにも幻想小説みたいなものはあるし、滑稽な寓話みたいなもの(アネクドート?)も多い。

表題作の「はじめに財布が消えた・・・」(セルゲイ・デニセンコ)は、ゴーゴリを思わせる短編。翻訳ものの怪奇小説を編集する人物に起こったこととは何か?

個人的に好きなのは、「安らぎ」(エヴゲーニイ・グリシコヴェーツ)か。その他にも、気楽に面白く読めるものが多かった。

【読んだ新書についての感想を書かずに、自分勝手なことを語る】

・青山拓央『心にとって時間と何か』(講談社現代新書)

さっき読み終わったばかりの新書。本書を読んで感じたこと考えたことを、感じたその時のことが色褪せないうちに書きたいと思います。かなり自分向けの、単なる妄想なので、ここだけ読みとばしてもらってもOKです。

さて、巷間でよく言われるように(?)、哲学をする人にはいくつかのタイプがあるように思う。

A=ほんものの哲学者。資格はいらない。資質があれば誰でもなれる。
B=しかるべき機関で色んな哲学を研究する人物。哲学研究者。
C=哲学書を用いて、哲学とは違う何かの思想を語る人物。

哲学者と呼ばれる人物、自称する人物は数多くいるけど、あくまで個人的な感想を言うと、そのほとんどは哲学者ではないと思われる。そんななか、本書の著者は哲学者(A)であり、なおかつ哲学研究者(B)であるように思う。

世の中で哲学者と呼ばれている人は、「C」に分類される人がほとんどだと思われる。あの人とかあの人とか。別にそれが悪いわけではなくて、哲学者というレッテル(?)をきちんと定義して用いないと、何かと何かを混同するかもしれない。それだけなのだけど、時に世間では、「役に立つ哲学」みたいなノリの本があふれているので、気をつけないと哲学が何か有用なものではないかとの誤解がうまれるかもしれない。

それで、本書『心にとって時間とは何か』は、ほとんどの内容は哲学に興味がない人でも面白く(有益に)読めるけれども、あとの残りは、「マジ意味分かんない。哲学学者って暇なのね」と思う人がいないとは限らないと思われる内容でないとはいえない。もし、後者のように思わない人は、もしかしたら哲学者なのかもしれない。

ところで、現在テレビアニメで『バビロン』というものが放送している(未だ放送終了していない)。詳しい内容は書かないけど、そこで注目されているのは、とある区域内で施行されようと画策されている「自殺法」という、法律についてである。これは、誰でも自由意志をもって自由に自殺ができることを目指すという以上のものをふくんでいる。いうまでもないけど、安楽死法案とは異なると思う(そうでなければなんのラディカルさもない)。正直に言うと、個人的にはあまり関心のない法律なのだけども、単に自殺を社会的に容認する、という以上のものがある限り、これはなかなか思想的に面白い想定なのではないかと思う。自殺のことを思想・哲学として公共的に語る場があまりない日本においては、一考の価値がある法案のような気がする(あくまで創作の範囲において)。シオランの言う「延期された自殺」にあやかると、自殺について考えることはそれを「延期」させる効用があるかもしれないと、観ていて思うのだが、主要登場人物はその法律の成立には反対のようなので、なんだか、いち視聴者として最初に抱いていた興味が腰砕けになってしまいそう。

で、本書には「<自殺>:死ぬ権利は、権利なのか」という章がある。ここで持ちだされる興味深い点は、「自殺の他殺性」である。自殺は、未来の自分を他者としてみるときに、「他殺」となるという。タイムマシーンか何かで未来の自分が訪れて、「自殺したら未来の俺が死ぬから、現在のお前は死ぬなよ」なんてSFがあるかもしれないけど、そんなかんじか。著者の書くように、「現在の自分が死ぬことで未来の自分を消すことは、十分な判断能力をもたない(と、現在の自分が信じる)未来の自分への、第一級の介入である」と考えるとき一定の説得力がありそうだけど、その考えははたして有効なのだろうか。

ちょっとだけ話を変えてみます。ラッセルの有名な「五分前創造仮説」について、本書に書かれているけど、著者も書いているように(?)、これには興味がない(というか、よく分からない)。とりあえずこれから、個人的にこのことをあくまで稚拙に考えていいきます。まず単純に、その五分前に創造されたということ自体を考えているうちに、その五分前から通常の時間感覚が足されていって、そのうちに十分前創造、一時間前創造、となっていくと思われる(ラッセルがそれを言ってから何十年も経っている)。つまりは、どこの地点から「五分前」なのか私にはわからないので、たとえば「今」というある程度の幅を持つ時間域がどこかで特定されない限り、何が「五分前」なのか端的に分からない。

この代わりに、たとえば「五分ごとに世界は創造される」と想定してみたらどうなるのだろうか。五分前に創造されたのではなくて、世界は「五分ごと」に新たに断絶的に創造されているが、誰もそのことに気付かないという想定。その世界では、世界そのものだけでなくて、断絶してとり残されたはずの世界から、新たに以前からそのものとしてそうあったような意味で「因果」や、それに伴う「責任」といった概念もつくりかえられている。つまりそこでは、誰もが「因果性」という意識を連続性としてもっていて、それが過去(というつくられたもの!)から「五分ごと」に更新されていることに気付かずに暮らしていくことができる。

そこでは、過去とのつながりにおいては何の不整合はないのだけども、未来について考えるとき、とたんに現在の行為が未来に対して何の「責任」がなくなると想定される。なぜなら、世界は「五分ごと」に新たに更新されるので、現在(のこの五分間に)起こることは、未来へ持ちこされることは必ずしもないから。とはいえ、新たな「五分間」において過去のことを持ちこしたまま更新されるとしたら、やはり、現在においても何らかの未来への責任は発生するだろう。ところが、現在までに何の齟齬もなく更新されていたからといって、未来においてそれが保証されるわけではない、ということを、「五分ごと世界創造仮説」は示している。結論としては、この直観は検証しようがないし、無責任なものだけれども、「自殺の他殺性」について考えるときには、哲学的に何らかの批判になるように思われる。たとえ未来の「私」が訪れたとしても、それはすでに現在のものとは隔たった、未来においてつくられた新たな「私」にすぎないから。では現在に現れたその未来の「私」とは何か、という疑問が出てくるかもしれない。それへの答えは簡単。現在の「五分間」にいる「私」が、その世界では来るはずのない未来への何らかの「責任」を抱いていて、そうした観念から現在において作られた未来像にすぎない。自分で書いといてなんだけど、この「五分ごと世界創造仮説」って反駁するのできないな。なぜなら、すべては唯我論的な現在に収斂してしまうから。こういう「現在」が過去の「現在」と何らかの対応関係をもつと観念されるとしても、それぞれの「現在」にはそこまでの過去しか書きこまれてないから、未来を考えるという観点ではそれらの世界は通約不可能なものに思える。なぜなら未来は来ないものとしても想定されるから(五分後に別の世界に書きかえられる可能性がある)。

さて、これ以上書くこともできますが、残りの部分は自分で考えていくので、この辺でやめます。ちなみに言っときますと、私はこんな信念を抱いて生きているわけではありません。

また話をテレビアニメ『バビロン』に戻す。そこで語られる自殺とは、「自殺の権利」を認めよということなのかもしれないけど、では、何をもってしてその「権利」を認めようというのか。ただ、「死にたいから、自殺を認めよ」では、あまりおもしろくない。というか、意味がない。安楽死ではなくて、あくまで健全な(と思われる状態にある)人間がすすんで自発的に死を選ぶ社会とは何だろうか。もしそんな法律ができたとしても、個人的にはそう簡単に自殺はしようとは思わないし、自殺への傾向が強まるとは思えない。広義の自殺(自死)が意味をもつ社会が来ることは予想されるし、自殺の倫理学が構築されることもあるかもしれない。そうだとしても、劇中で言われている「自殺法」の詳しい文言がわからないので、何とも言えない。「自殺法」をつくりたいなら、肝心の「自殺」とは何なのかをきちんと決めておくべきだろう。

現在に生きる「私」が死ぬことで未来の「私」に非難されると考えていくと、ではなぜ、「今」という強烈な意識が過去にはあって未来にはないのだろうか、という疑問が浮かぶ。個人的には、過去という記憶において、その時に「今」という強烈なその時にしか感じられない感じをもって生きていた、という記憶もあるので、なぜそのことが未来を考えるときには起きないのか(未来の予知というものがあるけど、それは本当に未来であると保証するものが、過去における記憶と同様なものが、そこにはあるのだろうか)。「今」は現在の短い時間を指すだけではなくて、過去の記憶においても、「この時を生きているこの今を、未来でも忘れない」という意識で「今」を刻んできたことがあった。たとえば、「過去におけるこの『今』という感じを、未来にも思いだすことはできるだろう」という意味で、過去からみた未来(現在)にその過去の「今」を、現在思い浮かべることはできるから、やはり、過去と未来とは地続きになっていると考えられるのだろうか。そうすると、現在が責任を持つべき未来はあると確信してもよいような気はする。

『バビロン』で簡単に片付けられている「自殺法」の議論が、排除している論点は、こういったものだと思える。だがしかし、『バビロン』から考えられるものは、もっと広い射程を含んでいる。よく考えれば分かるけど、人類がもっとも手軽に絶滅する方法は、「自殺」である。戦争や核兵器を使うよりも簡単に、一瞬にしてこの地球上から、人類がいなくなることができる。その可能性を『バビロン』が示すはずはないと思うが(方法論はともかく)、突き詰めて考えると、「自殺」は最も簡単な人類絶滅法としか思えない。そのことを『バビロン』から読みとることは可能ではある。とはいうものの、今読んでる、とある本では、あれほど死ぬまで「自殺」について書きまくったシオランですら、自殺することなく死ぬまで生き続け、さらに他人に自殺を勧めることもなかったそうなので、そんな「自殺法」ができたところで、何かが急に変わることはないとは思うが(なぜなら「自殺法」に身を委ねることは、思考の停止に他ならないから。そんなもんなくても、人間は自由に自殺について考えられる、とシオランなら言うかもしれない)。むしろ、「自殺」について徹底的に考えることで、シオランのように自殺することなく何とか生き抜くことができるような気はする。

【これから読む本】
これから読む予定の日本の小説について書こうと思ったけど、しんどくなったのでやめます。たぶんこれから感想を書くことはないと思います。ひとつだけいうと、今100ページほど読みはじめたのは、『平成怪奇小説傑作集(3)』(創元推理文庫)(Amazon)です。ここには、私が読んだことのない作家のものがけっこうあるので、楽しみ。これを書いている過去の私が、未来においてその楽しみを持続できているかどうかは、おそらくこの記事が投稿された時には判明していることでしょう。

(成城比丘太郎)





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