- 魔法使いを目指す少年ゲドの冒険記
- 普遍的な戦いを経て成長する少年の物語
- 読みやすい訳。根源的恐怖。傑作ファンタジー
- おススメ度:★★★★☆(ファンタジーとしては★★★★★)
昨日、小学生の娘にゲド戦記の話をすると「知ってるよ! クモが出てきて、少年と少女とが出てくるアニメで……」と、話し始めたので慌てた。そこで、まず、最初にこのことは書いておかないといけないと思う。
2017年現在「ゲド戦記」として一般に広く認知されている作品は、宮崎駿の実子である宮崎吾郎が監督したスタジオジブリのアニメだが、このジブリ版の「ゲド戦記」は、アーシュラ・K. ル=グウィンの「ゲド戦記」第3巻の「さいはての島へ」が<原作>で、父親(宮崎駿)の書いた漫画「シュナの旅」が<原案>なのである。つまり、二つの異なる物語をミックスして映画用に再構築したプロットで、これはもう宮崎吾郎のオリジナル作品といっていい。
余りこの話題には深入りしないが、なぜこんな事になったかというと、宮崎駿は、若き日「ゲド戦記」のアニメ化を打診したのだが、原作者のアーシュラ・K. ル=グウィンに断られ断念した。後年(映画は2006年公開)になって、原作者が変節してスタジオジブリにアニメ化を許可した。しかし、その時に監督したのは宮崎駿ではなく、その息子だった……。様々な憶測があるが、アニメ化が許可された時点で、宮崎駿はゲド戦記のアニメ化への興味を失っていたと言われている。しかし、興行的には期待できる。そこで、当時は話題性もあった息子(アニメ監督としては全くの素人)が監督した。作品の出来は推して知るべしだ。個人的にはこれは悲劇だと思っている。これから紹介するが、決して容易にアニメ化できるような内容ではないのだ。全盛期の宮崎駿ならまだしも、他の人間が映像化できるとは思えない。
(あらすじ)多数の島が集まってできている世界アースシー。その世界では、職業としての「魔法使い」や「まじない使い」がいて、それを学ぶ学院もある。主人公のゲドは、そのアースシーの島の一つゴント島で羊飼いの息子として生まれた。しかし、母親を早くに亡くし、雑草のように育ち、傲慢で短気な少年となった。しかし、7歳になった時に、島のまじない師にその魔法の才能を見出され、魔術の片鱗を覚える。そして、12歳の時、ゴント島を襲ってきた侵略者(カルガド人)を目くらましの魔法で追い返したことから、高名な魔法使い「沈黙のオジオン」が訪れ、名前を与えて弟子に取る。しかし、高慢なゲドはやがてその温和な師匠の元も飛び出し、ローク島の魔法学院に入学する。そこで、ゲドは元来の才能をもって様々な魔法を学ぶが、同時にその傲慢な心は魔法の闇の部分も呼び寄せてしまう。ゲドは魔法学院で大きな過ちを犯し、その過ちを償うために再び世界へと旅立つ。しかし、どうやってその過ちを償えばいいのか……。ちなみにゲドと書いているがこれがは真の名前で、通常はハイタカと呼ばれる。真の名前は魔法にとって非常に重要なもので容易に明かしてはいけないという設定がある。
以下中盤までのネタバレになるので、ここまでで興味を持たれた方はこのまま、本書を読んでみて欲しい。
ゲドが犯した過ちとは、魔法学院で同窓生のヒスイに挑発されて、死霊を呼び出す魔術を使ったことである。この時、死霊と一緒に、太古の悪の精霊(と思われるもの)も解き放ってしまう。この結果、ゲドは瀕死の重傷を負い、魔法学院の大賢者はゲドを助けるために落命する。そして、以後、その精霊に常に命を狙われるようになるのである。物語は序盤を過ぎると、最後までゲドとこの精霊の果てしない戦いが描かれる。これは非常に内面的で、普遍的且つ深遠なテーマであるが、絵的には映えないのである。これが、少なくともこの第一巻が映像化に向かない理由だ。
もちろん、途中に竜退治のエピソードや魔城からの脱出のエピソードもあり、常に船で旅をするゲドの冒険は非常にスリリングで、精霊や悪意を持った人間に襲われる様子はホラー要素もふんだんにある。エンターテイメント小説としても、ストーリーの起伏の付け方が絶妙で、自らの過ちを償いながら、徐々に成長していくゲドに読者は共感せずにはいられない。また、彼と親友、師匠であるオジオンとのエピソードなどは、言葉にならない深い感動を感じるだろう。
奇をてらった設定もなければ、描かれるエンターテイメント的要素はむしろ地味ではあるが、その端正な文章と上質なエピソード、必要不可欠な要素だけで語られるキャラクターの造形の深さは驚嘆に値する。「指輪物語」「ナルニア国物語」と共に、俗に世界三大ファンタジーとして呼ばれる(ことが多い)のは納得の出来栄えだ。特にこの第1巻の「影との戦い」を抜きにしてゲド戦記は語れないと思う。ちなみに三大ファンタジーとしては、映画「ネバーエンディングストーリー」の原作として知られるエンデの「はてしない物語」やライマン・フランク・ボームの「オズの魔法使い」などを挙げる方もいるようだ。
それにしても、これこそ、文章でのみ真の感動が味わえる物語の典型的な例であり、映像化が少ない、または、原作者が最初拒んだのも良くわかる。アメリカでテレビシリーズになっているようだが、これも酷い出来のようだ。日本語訳も読みやすく、文章としても美しい。感情的な描写は極力排し、淡々と描かれるゲドの物語が、なぜこれほど心を揺さぶるのか、表面上は理解できても、真の感想は言葉にできない。それこそファンタジー独特の芸術性だと思うのだが、どうだろうか。
蛇足になるが、ゲド戦記と呼ばれる本は現在6冊刊行されているが、最初の3巻が1968-1972年に続けて書かれ、その後、時間をおいて第4巻が1990年、最後の2巻が2001となっている。実は4巻で作風(というかテーマ)が大きく転換し、かなりマイナス方向に衝撃を受けた。それについてはまた機会が有れば紹介したい。私が初めてゲド戦記を読んだ時は3部作だと言われていたのだ。もし、興味が有れば、とりあえず3巻まで読んでみられることをお勧めしたい。
(きうら)