- 日本人の誇りを示す貴重な伝聞
- 拷問とはサディズムにあらす
- 読みやすい文。感じ入る結末
- おススメ度:★★★★✩
(あらすじ)江戸時代、吉五郎という人間が窃盗の罪を犯した。しかし、彼は自白しない為、拷問に掛けられる。しかし、その時代の拷問とは、寧ろ拷問をする方が恥ずべき行為だった……。
「半七捕物帳」で著名な岡本綺堂の随筆の一編。タイトルは過激だが、内容は如何に日本人が「罪を憎んで人を憎まず」の人種であったかを示す美談だ。以下、著作権も切れたようなので引用する。
わが国にかぎらず 、どこの国でも昔は非常に惨酷な責道具を用いたのであるが 、わが徳川時代になってからは 、拷問の種類は笞打 、石抱き 、海老責 、釣し責の四種にかぎられていた 。かの切支丹宗徒に対する特殊の拷問や刑罰は別問題として 、普通の罪人に対しては右の四種のほかにその例を聞かない 。しかも普通に行われたのは笞打と石抱きとの二種で 、他の海老責と釣し責とは容易に行わないことになっていた 。
つまり、なるべく肉体的苦痛を与えずに罪人を裁くのが、捕り方の器量とされたのである。これは拷問の話としては全く百八十度逆の論旨であろう。何と誇り高いことか。しかし、罪人もどうせ死罪であれば、自らの誇りを守ろうと、その暴力による詰問に屈せず、周りの罪人も彼をヒーローとし、その器量を讃えるのだ。
もちろん、犯罪は犯罪だ。犯罪は憎もう。それは当たり前だ。だが、この随筆で描かれるのは人間の度量の話だ。責める方も責められる方も、プライドを賭けて戦うのだ。責める方は傷つけたく無い、傷つけられる方は力には屈服しない。真の男同士のやりとりだ。
翻って今の日本人はどうだろう? 罪を犯したものは保身を考え、罪を裁く者は冤罪と知っていても責め続ける。罪を犯してないかも知れない弱者を吊るし上げる。これこそ、今の日本のリアルな「恐怖」でなくて何であろうか。岡本綺堂の話がフィクションなのか? 今の日本人がフィクションなのか?
正義を語るつもりは毛頭無いが、誇りとは何かを学べる一編。大人の都合上、有料版にリンクを貼ったが、タイトルで検索すれば「青空文庫」で無料で誰でも読める。
金は無くなってもいい。健康を損なうのも仕方ない。人生は失敗の総体だ。だけど誇りを売り渡してどうする。それすら無いとすれば、己は、日本人は、いったい何者なのか?
獣、獣に違いない。