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特になし

「死」とは何か(シェリー・ケーガン、柴田裕之[訳]/文響社)

投稿日:2019年1月29日 更新日:

  • 「死の本質」について哲学的に考える
  • 「死」を考えることで「生」が浮かびあがる
  • 「自殺」の合理性と道徳性について
  • おススメ度:特になし

【はじめに注意喚起】

まず注意として述べておきますと、この日本語版は「縮約版」となっています。原著では、前半に「死」についての「形而上学」的考察がなされ、後半は価値論的考察がなされているようですが、日本語版ではその前半部分が丸ごとカットされているようなのです。この是非については問いません。はじめに言っておきたいのは、たとえ「形而上学」的考察の部分が訳出されていたとしても、これから私が書こうとしている批判には何の影響もないことが、後半部分を読んだだけでそう思えるということです。

【この記事について】

本書の原題は、『DEATH』というもの。副題は、「イェール大学で23年連続の人気講義」というもので、原題からうかがえるようなおそろしさは、全くない。そもそも「死」について考えるのに怖いも怖くないもない。もちろん、私は幼少期に「死」について考えただけで身震いしたが、今は「死」は謎でしかない。しかし、本書で著者は謎ではないという態で語っている。なぜなら著者は、徹底して「生」の側から「死」を語ろうとしているようにしか思えないから。どういうことかというと、「死」について語ることができるのかできないのかを問う時に、もしそれを語ることができないならば、語ることができないことをいかにして語ればいいのかという態度が全くないように思えるから。著者が語ることは疑似哲学としての論理的なプロセスとしてはそれなりに興味深いのだが、私が求める「死」についての哲学とは大きくかけ離れている。私が求めるのは、「死」を(哲学として)語ることが、どれだけ困難かということだ。「死」を外形的に語ることではなくて、その内実から語ることの困難さを求めているのだが、それは本書には見られないように思う。しかし、それは本書の欠陥ではなくて、私個人の問題でしかない。なので、このブログ記事は、私が「死」について思うことをダラダラ書くだけのものですので、本書の内容説明とかはあまりしません。あしからずご了承ください。それと本書では、「死」に加えて「自殺」についての哲学的考察について詳しくなされるわけではないので、その内容説明についてもこのブログ記事においてほとんどせずに、私が考えることを書きます(とくに自殺については、本書とまったく関係ないことを書きます)。

一応いっときますと、本書は世界有数の有名大学でなされる講義だけあって、それなりに面白そうではある。この講義を受ける人のほとんどは(というかほぼすべては)、ある程度若者でありかつ未来への展望がありまくるという上位レベルにある人たちだと勝手に思っていて、そうした人たちにとっては読む意味はあるでしょう(つまり「生」に満ち溢れている人にとっては)。日本のことを考えると、こういった講義は大学でなされているのだろうか。高校では間違いなくなされていないだろう。現在の日本では、「生(きること)」のことはよく語られているが、本書のように「死」そのものを通して哲学的に<生きること>を考えようとしている機関はないのではないかと思う。そういった意味で、本書のような講義を日本の高校でもできるような環境がととのったならば、もう少しこの国もおもしろくなるかもしれない(良くなるとは言っていない)。

【「死」ってなんやねん】

本書ではまず、「死」を「物理主義」の観点と、その人の同一性を基礎づける「人格」の観点から述べようとする。しかし、私にとってはどうでもいい議論でしかない。「死」に関する哲学的疑問とは、私にとって徹頭徹尾<私の死>の問題でしかない。これは何も、他人の死がどうでもいいとか言っているのではない。他人の死を含む「普遍性」のある「死」については、倫理学的・道徳哲学的に考えればいいことで、それは日本の高校から大いにやったらいいと思う。そうではなくて、「死」とは何かを哲学的に問おうという時、まずは<私の死>からしか「死」そのものは哲学することはできないのではないかという信念が、私にはあるだけだ。

著者は簡単に「死はすべての終り」というが、どのような観点からそれを語ればいいのだろうか。そもそも「物理主義」の立場に立とうが、「人格」の終りを「死」と捉えようが、「死」は<私>にしか訪れないものではないのか。そしてそのことは語れないのではないか。いくら著者の言うように「私が死んでからのこと」を想像して、そこから「死」ぬことの妥当性を問おうが、<私>がなくなること、つまり文法上の問題ではない<私>が、<私>からしか開かれない世界にいなくなるということの本当の意味は何なのかという問題は、どうやっても直観できないし、同時に「死」を哲学するにはこれからしかないように思う。これは屁理屈かもしれない。しかし、著者が「非存在」という「死」の状態を語る時、または「人生における良いことを享受できなくなるという『剥奪説』」の立場で、「死」は悪いと言う時、そこで語られるのは<死一般>であって、<私の死>ではないように思われる。これを等閑視するような「死」の哲学は哲学的にみて陳腐な議論だと思う。何度も言うが、あくまで私の思う哲学であって、著者の語ることには「心理学的・社会学的」にみて有用性はある。

ここで、たとえば、意識を喪失した時のことを考えてみよう。意識を喪失する前に、「あっ、意識失うかも」と意識することはできる。同様に死ぬ前に「これは死ぬかも」と思うこともできるように思える。意識を失っている時に「わたしは意識を失っている」という意識を持つことはできないように、「私は今死んでいる」と言うことも、現在の<私>の状態が死後に今とは違うものに変化するという通念を支持するならば、そういうことを言うことはできない(幽霊とかそういうものは措いておく)。「意識を失っている」と言うことができるのは<私>以外の他者だけであって、<私>はただ意識を回復した時にだけ「意識を喪失していた」と語るだけであるように思う。しかし、「死」はそれが許されないという立場に立つなら、「死んでいた」と事後的に語ることはできない。死後に生前と同じ存在として存在することはできないと思われるから。この、語ることのできないように思われる「死」をどうやって語るかということをつきつめない「死の哲学」にはあまり面白みがない。

著者は、人は「独り」で死ぬことの是非についても語っているが、論理的にはともかく内容に関してピンとこない。私が勝手に思うに、「人は独り分しか死ねない」という問いを立ててみて、そこから何か導き出せるかという問いでしか語れないように思う。最初の問いの立て方がなんかずれてる。だから、著者の言うことは隔靴掻痒の感しかない。

【不死について】

本書では、「不死」について良いのか悪いのかが語られているが、それにもあまり魅力を感じない。どうして「不死」が悪いと想定できるのかが、実感として分からない。「不死」に関しては、もっと実際的な面で語るしか意味がないように思う。「不死は良い」という立場でしか語る意味はない。そもそも「不死」は悪いという意味がわからない。「不死」とは無限に生きることだという。それがまず分からない。たとえば、太陽の寿命は有限と言われている。そうすると、地球にいる限り、「不死」の者はその物質的な身体構成を変えざるを得なくなる。つまりは今ある物質を基にした身体ではいられなくなるので(ここは物理主義者も同意するだろうか)、その代わりにエネルギー体やらなんやらになろうが<私>という意識の統一性を保証するものが必要になるように思われる(「物理主義」と「人格説」の折衷案)。それは何だろうか、というかそんなもんいらなくなるかもしれない(こうなったらもうSFの世界である)。そうなったら今のような「物理主義者」的な精神(という人間に対する科学主義的な見方)も変わらざるを得ないので、もうすでに「不死」が良いとか悪いとかの問題ではなくなるような気がする。もちろん、その前に太陽系を脱出できればいいのだが、それでも宇宙自体で永遠に生きるということがわからなくなる。私が言ってるのは結局見当違いの屁理屈なのだが、それもこれも、著者が「死や不死」の是非を問うことで「生」の意味を問い直すという、どーでもいいことをしているからだ(確信)。

【「死」を恐れること】

「死」を恐れる時、何を恐れているのかというと、まずは何かしらの痛みがあるからというのは分かるが、それは「生」に関わることだ。それから本書で述べられる、「死」には経験が伴わないからそれを恐れるのは不合理だというひとつの立場について、本当にそう言えるのだろうか。もしそうだとしたら「死」の経験のなさを「生」において問うことの意味は何だろう。これも「死」の是非を問おうとして逆に「生」を問おうという顛倒に陥っていると捉えなければ意味をなさない。「死」は確実に訪れるからそれを恐れるのには意味がないとするなら、その立場もまた「生」からみた「死」でしかないように思う。「死」が思ったよりも早く訪れることを恐れるという心理も分からないではないが、そのことは逆に「生」の意義をあぶり出している。<私の死>でしか「死」を語れないのではないかという私の直観からすると、「死」は哲学的な謎でしかなくて、恐れという感情の彼岸にあるように思われる。こういった直観は哲学的なものであって、実際に「死」に直面するともちろん「死」の意味は違ってくるだろう。「死」というものがぬきがたく私に現前するという状況に陥ったならば、その時には恐れの感情が襲うかもしれない。でも、一方で、死ぬ間際まで理性があるならば<私の死>がどういうことなのかを問い続けていることだろう。この立場は、「死」の哲学から「生」の価値を測ろうという著者の立場とは相容れないものと思われる。「死に直面しながら生きる」という章(講義)には、著者の「(死についての)生」の価値論に満ちている。《※》

《※》本書後半部分が「価値」に関することなのでしょうがないが、それでもやすっぽい感じがする。

「死」とは<私>の経験するなかで唯一他と比べようのない定量化できない特権的なできごとだという立場に拠ると、著者のする「死」の考察には何の意味もない。これはたんに、私が著者に反する立場に立つだけではないように思うのだが。もしかしたら、この著者の人生(生活)が「生」において満足できるものになっていることに私が反発している以上の何かがあると思うのだが、それは未だ分からない(ので、考えてみよう)。

【自殺について】

本書では、「自殺」の章(講義)があり、そこでは自殺の合理性や道徳性について語られている。それなりにみるべきところはあるが、私としてはイマイチなので、その内容を説明する代わりに、とある二人の人物に「自殺」について語ってもらおうと思う。

[登場人物]
《A》:「私」…変なことばかり考える人。
《B》:「わたし」…ふつうの人。

[場所はとある病院の食堂]

《B》:(食堂にいるAに近づいて前に座る)Aさん、どうしたんですか?食べないで、黙々と何か書かれてるようですが。

《A》:ああ、Bさんですか、こんにちは。

《B》:ああどうもです。食欲ないんですか、コーヒーだけで大丈夫ですか?

《A》:ええまあ、食事は朝摂ってきたので、これで十分なんです。

《B》:そうなんですか。もしかしたら体調悪いのかなとおもったもんですから、それに深刻そうな顔つきしてるのを見かけたもんで。

《A》:えっ、そんな顔してましたか?

《B》:してるように見えましたけど。

《A》:そうですか、でもなにもありませんよ。ちょっと考え事をしていたものですから。よければ聞いてくれますか?

《B》:わたしでよければ。もう清算も終わりましたし。

《A》:では聞いてくれますか、とはいえ、どこから話していいものか。まあ、たいたことじゃあないので、あっさり言うと、自殺に関することなんです。

《B》:ええっ、それはたいしたことじゃあないですか。そんなに病状がひどいんですか?

《A》:いや、あの、病状は大丈夫です。ええと、私が言いたいのは、どうしたら自殺と認められるかということなんです。

《B》:うーん、それはどういうことなんでしょう。

《A》:詳しく言うとですね、自殺を本当の意味で遂行するには、どうすればいいかということなんです。どのようにすれば、あるいはどういう状況であれば、自分も周りも文句なくそれは自殺だと認められるのか、つまりですね、自殺だとはっきりといえるような形で自殺は出来るのか、ということなんです。

《B》:ええと、それは、自殺の方法論ということですか?

《A》:それはですね、方法の問題ではなくて、認識論的な問題なんです。まずは、自殺と自殺行為を分けることはできるでしょうか?

《B》:それは、できるでしょう。自殺は自らの手で直截的に自らを無さしめようとする行為の究極形だとして、一方、自殺行為というのは自殺に準じるような行為のこと、もっというと、たとえば「緩慢な自殺」と言われたりするように、「そうならなくてもいいかもしれないが、もしかしたらそうなるかもしれないという意図を持って、限りなく自殺と言われる状況に近づこうとする行為一般」と捉えるなら、区別は出来そうですね。たとえば、医者から止められている危険行為をするなんてことは、自殺行為とされるでしょうね。

《A》:では、自殺には「そうしてやろう」という意志が必要だということですね。

《B》:まあ、そうといえるでしょうね。

《A》:では、そこに時間というものはどう関わってくるでしょうか。たとえば、猛毒をのんで即死した場合は自殺への意志は時間的に変容することないでしょうが、首吊りをしてその後助け出されたものの意識は戻らずに数年後に死亡した場合なんかはどうなるでしょう。

《B》:後者の場合は、おそらく自殺として処理されるでしょうか。おそらくですが、自殺の意志を強くあらわすようなものが遺されていたら、よりその傾向を補強するでしょうね。

《A》:なるほど、やはり意志というものが大事だということですね。

《B》:そうでしょう。たとえば、自殺未遂後に意識が戻り、その後普通の生活を送ったとして、その人が「あの時は自殺の意志を持って行為に及んだ」と語ったとしたら、そこには意志というものが強く意識されるでしょうし、それと同様に、自殺して意識を取り戻さずにいた場合でも何らかの意志が感じられる証拠があればある程、自殺と認められるでしょうね。

《A》:なるほど、意志というものはその本人に属するものではありながら、他者がそれを知るには何らかの外的なものがなければばらないというわけですね。

《B》:そうなるのですかね、意志は見えませんし、知りようがありませんからね。確からしさをどれだけ確保できるかでしょうね。その意志を探るほかにできることはなさそうですね。

《A》:じゃあ、はっきり自殺だと規定できるものは、本人の意志を知れるかどうかしかないというわけですね。

《B》:うーん、そうだと思いますが、たとえばですね、誤って服毒するなんて場合はそれを飲むという意志はあったとしても自殺の意志はないとされるでしょう。それでも、自殺を偽装された殺人なんかでは、それを見抜けなければ自殺と処理されるでしょうね。あるいは、自殺を疑う人がいても社会的には自殺とされるでしょうね。

《A》:ということは、自殺でいわれる意志というのは、あまり関係ないですよね。

《B》:そうなりますかね、では今までのことを考えるなら自殺には、意志というものは関係ないということになるのかな。

《A》:意志や意図というのは、そもそも本人でさえはっきりと掴めているものでしょうか。たとえば、グデングデンに酔っ払っている人が車にひかれたとしたら、おそらく自殺への意志はなかったとされるでしょうね。まあ、その人が普段から自殺をほのめかしていたら別でしょうが。

《B》:まあ、Aさんはやばそうですね。

《A》:まあそうですね、アハハ(乾いた笑い)

《B》:わたしも人のことは言えませんが・・・

《A》:ここで問題なのは、酩酊具合がどうだったでしょうが、それもまた程度問題として処理されるでしょうね。そんなに酔っ払っていなかったら、おそらく突発的な自殺衝動として処理されるでしょうね。本人が未遂後に「自殺の意志はなかった」と強く主張するのでなければですが。

《B》:状況次第で自殺扱いされるということでしょうね。

《A》:そうでしょうが、ではそれで自殺というものを簡単に片付けていいのかということなんです。

《B》:あっ、そういうことですか。Aさんは、そうやって社会的なものとして、簡単に自殺への意志という信憑に従うことはできないと。

《A》:まあ、そうなんですが。たとえばこういう状況を考えてみましょう。末期ガンを宣告されたある正義感の強い人物がいたとして、その人が軽い抑うつ状態になりながらも強い意志でもって人生を終わらせることを決意して遺書をのこしていたとします。で、その人物がある時、川で溺れている人を発見して自殺のことは忘れて正義感から川へ飛び込んで助けようという意志を持ったとします。で、実はその流されていた人はマネキンで、助けようとした行為は勘違いだったわけです。そこには目撃者がいたんですが、周りからはその人物が川へ身投げしたようにしか見えなかったとします。

《B》:その場合は、自殺とされるでしょうね。

《A》:でも、その瞬間には、その人物に自殺への意志はなくて人を助けようという意志しかなかったと想定されるんです。そう考えられる余地がある限り、私は意志というもので自殺を考えることは保留したいんです。

《B》:それはおかしいですね。それに哲学としてもその考えは幼稚な感じがしますね。その場合、もしその人物が川へ飛び込んだ理由を知らなければ現象としては単なる川へのダイブなわけですから、いくら自殺ではないかもしれないものを想定しようが自殺として処理されざる得ませんね。

《A》:だからですよ。

《B》:どういうことです?

《A》:つまりですね、時に人は、自殺の原因として、そういう意志があったと主張することがありますが、今までの議論からは、意志なんてものは自殺とはまったく関係ないということになりませんか。

《B》:そうなりますね。だからわたしは自殺というものは社会的なというか、自殺者の意志を表すものを共同的に探る意図を持ってしかつかめないものだと思いますが。

《A》:それもなんというか、つまらない結論ですね。

《B》:それをつまらないというかどうかは勝手ですが(ガタン)。

《A》:いやいや、勝手では困りますよ、だいいちBさんは、その人の意志をつかむことが大事だと言いながら、結局その意志とやらはその本人に帰属することなく確定できると言ってようなもんですからね。いい気なもんですよ。

《B》:いい気なもん、はないでしょう。こっちも結構真剣に自殺について考えたんですから。

《A》:こっちは、そういった意志に捉われている限り、自殺にはたどりつけないんですから。

《B》:ではなんですか、Aさんは意志抜きに自殺に辿り着きたいとでもいうんですか。だから、自殺とは何なのかが分からないと言ってるわけですか。

《A》:そうですよ、だから確実に自殺に近づこうとしても、近似値しか得られないという手ごたえしかないんですからね。

《B》:ああわかりましたよ、それはなんだか「アキレスと亀」みたいですね。自殺そのものには永遠に近づけないことに悩んでるわけですね。それがたとえ錯覚だとしても。

《A》:まあ、それはちょっとわかりませんが、結局死ぬその時まで自殺に惑わされそうですね。

《B》:それでいうなら、死そのものも生の内にないわけですから、その死も自殺と同様、永遠にたどりつけないのかもしれませんね。

《A》:なるほど。死にも永遠に追い付けない。いいですね。しょせん、生きてる者の概念である死とは、死者のものではないですから、いくら死について語ろうとも死が訪れることはない。なんだか、気が楽になるような感じですね。

《B》:でもまあ、欺瞞なんですけどね。

《A》:ですね。

《B》:どうですか、自殺についてちょっとはわかりそうですか。

《A》:いやわかりませんね。ほんの少しも近づけてないでしょうね。

《B》:近付かなくていいんじゃないですか。むしろ、近づいた時には、死ぬんですから。

《A》:かなり険しい道になりそうでしょうしね(ため息をつく)。

《B》:顔がさっきよりましになりましたね。どうでしょう。腹も減ってきたんで、何か食いませんか。話の続きはそれからにしませんかね。

《A》:そうですね、それがいいかもしれませんね。じゃあ、軽い品物でも食べましょうかねぇ。

《B》:うどんなんかどうですか。

《A》:そうですね、もしかしたら腹が減ってたから変な考えに捉われてたのかもしれませんね。なんか頼んできましょう。

《B》:それがいいですよ、落ち着きますしね。

《A》:まあ、オチはつきませんでしたけどね。

《B》:そだねー。

(成城比丘太郎)


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