★★★☆☆

ニーチェと世界と、いろんな謎 ~ニーチェ入門(清水真木/ちくま学芸文庫)/なぜ世界は存在しないのか(マルクス・ガブリエル、清水一浩〔訳〕/講談社選書メチエ)

投稿日:2018年2月24日 更新日:

  • 他人の〔ニーチェ〕解釈を、自らの論文で批判しかしてこなかったという著者による初の入門書。
  • ニーチェという人物への入口として分かりやすい。
  • 二人の〔かなり長い〕会話が繰り広げる、ある存在の謎。
  • おススメ度:★★★☆☆
    (編者注:2万字以上あります)

【登場人物】
A(わたし)……なんでも深く(変な方向に)考える人物。
B(私)……とにかく入門的なことが好きな人。

【場所はどこかの病院、とある診療科前の待合室、A登場】
《A》:やあBさん今日は早いですね。
《B》:ああどうも、Bさん。ええ、今日は混みそうなので、ちょっと早めに来たんですよ。もう一時間も待ってましてね。
《A》:そうなんですか(そんなに混んでなさそうなのにな)。で、本を読んでたわけなんですね。よろしければ、今どんなのを読んでいたのかみせてもらっていいですか?
(B、持っていた本を見せる)
《A》:へえ『ニーチェ入門』ですか、あれ?筑摩書房の「ニーチェ入門」というと、もうすでに一冊出ていましたね。
《B》:ああ、この今私が読んでる『ニーチェ入門』のほうは、講談社から2003年に出版されたものの文庫化でしてね。なぜ同じ出版社から同じタイトルが出版されたのかは分りませんが、私のような「入門」好きをターゲットにしたのでしょうかね。
《A》:それとも、こちらのほうが『ニーチェ入門』として決定版にしたいのかといったところですかね。まあどうでもいいのですが。ところで、ニーチェがお好きなんですか?
《B》:いえ、まあ好きというほどでもないんですが、学生時代にちょっとだけ読んだことがあるだけでしてね。これを読みはじめたのは「入門」という文字に惹かれただけでして。
《A》:そうなんですか。分かりやすいんですか?
《B》:そうですね、私としては分かりやすいですね。もともと私は「入門」書的なものが好きでして、とにかく「入門」的な本であれば、ひとまずそのことに深入りするつもりがなくても、手を出してしまう性質(たち)でして。サバイバル入門書とか、キャラ弁の作り方とか、木登り大全とか、アルプスでヨーデルを歌おうとか、様々な写本からの古典読解案内実践編とか、他人へのまろやかな批判法とか、いざという時のための刑務所暮らし、とかですね。実践するつもりがなくてもですね読んで楽しむかたちというか、そんなかんじですね。
《A》:それはなかなか変わっていますね。でもそういうことは誰にでもあることだと思いますけどね。
《B》:いやぁ、自分でも変わってると思いますよ(あなたに言われたくはないですけどね)。

【ニーチェとは誰?そしてニーチェ本について】
《A》:で、入門できそうですか?ニーチェに。
《B》:そうですね、この本には、ニーチェについて、簡略化して書かれた生涯のことから、彼の思想についてや、著作についてなどが分かりやすく書かれていて、とくに、ニーチェの思想というのが彼の生涯と抜きがたく結びついてるのが簡単ながらも理解できますね。
《A》:ニーチェの生涯っていうと、確かドイツで生まれて、それからどうしたんでしたっけ?
《B》:そのドイツ生まれっていうのは厳密には違うみたいですね。彼はプロイセン人として生まれ、そのあとはスイスに国籍を移したようなんで、法律上はドイツ人であったことは一度もないようなんです。でも、ドイツ語で執筆活動をしたようだし、ドイツ語の文化圏にいた人なので、どこの人間かという規定はあまり意味ないかもしれませんね。
《A》:へえ、最後はスイス人だったんですか、それは知らなかったですね。わたしなどは恥ずかしながらニーチェの本を読んだことがないものでして、あっでも、ニーチェに関する本ならいくつか読んだことはありますけど。
《B》:私も『ツァラトゥストラはこう言った』とか、あと何冊か読んだだけですから。しかも昔の話ですし。それはそうと、ニーチェに関する本というのはどのような本を読まれたんですか?
《A》:主に日本人研究者とか哲学者とかが書いた本でしてね、これがまた結構面白いのが多いんですよ。
《B》:それは興味ありますね。入門書が好きな私としては。
《A》:ええ、入門書というより、ニーチェの言葉からその人たちがどのような意味を読み取るというか、解釈するというか、まあ、ニーチェを通して自らの思想・哲学を述べようとしたかというのですけどね。最初に読んだのは、『ニーチェとの対話』(西尾幹二・著)ですね。これは若い時に読んだ方がいいですね。なんというか、ニーチェ思想を通して生き方の指針を示してくれるというか、著者の熱さが静かに伝わってくるいい本ですね。
《B》:西尾幹二のニーチェ本に関しては、この『ニーチェ入門』にも書かれてましたね。
《A》:あっ、そうですか、これは入門書とは違うかもしれませんが、読まれてはいかがですか?
《B》:ありがとうございます。哲学の入門書的なのは好きなので、ちょっとチェックさせてもらいます。
《A》:それから『これがニーチェだ』(永井均・著)ですね。これはニーチェ入門ではないのですが、面白いですよ。なんというか、哲学するのはこういうことかというのが少し味わえるかもしれないですね。
《B》:そうですか・・・実は永井均の『ウィトゲンシュタイン入門』を読んだことがあるのですが、いまいち入門できなかったものですから、その本も読もうかどうか迷ってたんですよ。あっ、でも、『マンガは哲学する』は面白かったですけどね。
《A》:ああ、それは私も読みましたよ。漫画にそんな変な突っ込みしなくてもいいのにと思う部分もありましたけど、「この作品のこの部分は哲学的でない」というように言い切るところはいいですよね。
《B》:じゃあその『これがニーチェだ』も読んでみますよ。
《A》:それから入門書ではないのですが、最近読んだ『ニーチェみずからの時代と闘う者』(ルドルフ・シュタイナー・著)は小著なんですが、ニーチェと同時代人だったシュタイナーが、ニーチェの思想をまるで自分のものであるかのように語るところがよかったですね。
《B》:シュタイナーがそんな本を書いてたんですね。
《A》:それから『ニーチェ―ツァラトゥストラの謎』(村井則夫・著)もよかったですね。これを読んでわたしは『ツァラトゥストラ』を読みたくなりましたね。
《B》:では読んでみてはどうですか。難しくはないですし、新約聖書のパロディのようなものと思えば、すらすら読めると思いますよ。
《A》:では読んでみますか。とはいえ、どの翻訳を読めばいいのか分からなくてですね。いいのないですか?
《B》:そうですね、私が読んだのは岩波文庫のものと中公バックスのものですから、他のは分かりませんが、この『ニーチェ入門』によると、日本では14人もの人物がこの100年で『ツァラトゥストラ』翻訳をしたようですね。
《A》:ええっ、そんなに出ているんですか、すごいですね。
《B》:どうやら、日本は世界でもトップクラスのニーチェ翻訳大国らしいですね。だから翻訳を読むとしたら、やはり最新のがいいのではないでしょうか。光文社古典新訳文庫と河出文庫で最近出ているようですが、翻訳者を見るに、河出文庫の方がいいでしょうね。値段的にも少し安いですし。
《A》:そうですか、やはり最新の方がいいのでしょうね。
《B》:まあ私は読んだことがないので分りませんが、そういう部分はあるかもしれませんしね。特にニーチェの場合、ニーチェの妹が原テクストを改竄していたようですからね。近年それが分かったようですから、といっても昭和30年代のことのようですけど。よく目にする『(権)力への意志』はまとまった形としてはもう収められていないそうです、新しい全集では。
《A》:そうなんですか、実は、ニーチェを読んだことがないと言いましたが、部分的には読んだことがありまして。『ニーチェ覚書』(バタイユ・著)なんですけど、これにはバタイユが編集したニーチェの断片が載せられてまして、それでならニーチェを読んだのですが。
《B》:へえ、それは、バタイユのことですから、自分の思想に与するものとしてニーチェの言葉を編集したものでしょうか。
《A》:まあそうですね。って、バタイユも読むのですか?
《B》:あっ、いや、『バタイユ入門』(酒井健・著)を読んだだけですけど。
《A》:ほんと入門書がお好きなんですね。
《B》:ええ、まあ(だから最初に言ったでしょ)。

【健康と病気に関して】
《A》:混んでない割には、なかなか呼ばれませんね。
《B》:そうですね、もしかしたら医者〔せんせい〕に他の用事が急にできて、それで遅れてるのかもしれませんね。
《A》:そういうことがあるんですね。
《B》:ええ、それほどあるとは思いませんが。それに一人の患者さんに長く時間が掛かる場合もありますし。
《A》:そうですか。ところで、最近からだの調子はどうですか?
《B》:まあいい時と悪い時とを行ったり来たりですかね。
《A》:わたしもそんなかんじですよ。どうもちょっと健康になると、悪かった時のことを忘れて無理をしがちでしてね。
《B》:まあそんなもんでしょう。ところで、この『ニーチェ入門』は、ニーチェの思想を「健康と病気」から読みとろうとしてましてね。ニーチェ自身も、普仏戦争に従軍して病気にかかってから、彼の思想に病気というキーワードが関わってきたようですね。
《A》:へえ、どんな病気だったんでしょうか。
《B》:どうやら従軍中に赤痢とジフテリアに罹患したようなんですが、その後に「胃を中心とする消化器系の機能不全」だったようですね。これはつらいですよね。私も以前に十二指腸潰瘍がちょっとあったと言われましてね。まあ、胃や腸の調子が悪い時のつらさはなった者にしか分からないつらさですね、ほんと。健康人を詐称するやつらにはそれが分からんのですよ。ニーチェがどうだったかは分りませんが、まあ胃腸は大事ですよね。
《A》:それはストレスか何かで?
《B》:いえ、ストレスだけではないのですが、まあそれもあるかもしれませんが。
《A》:そうですか。わたしも調子が悪い時は気が滅入りますし、やはりニーチェもそうだったのでしょうか。
《B》:いや、ニーチェの場合はそうではなかったようですよ。ニーチェは、自分が病人とは対極にある健康な人間だと思っていたようですよ。『ニーチェ入門』では、ニーチェからすると、「病人とは、自分の身体に負荷がかかることを避け、身体の休息と保護を要求する人間であり、健康な人間とは、身体にかかる負荷を悦ばしいものとして引き受けることができるばかりではなく、自らすすんで身体に負荷をかけることにより健康を確認し満足を得ようとする意欲を持った人間でした。」
《A》:それはすごい考え方ですね。あれですかね、マッチョなのかな。
《B》:どうなんでしょうね。精神的な部分ではそうかもしれませんね。でも、健康と病気というものは、「本質的には身体に対する態度を決めるもの、「本能」の状態に他なりません。」とあるように、自分の身体の状態に対する認識論的な問題だったのでしょうね。
《A》:なるほど、自分の気持ち次第だ、ということですかね。
《B》:それから、健康というのは、知性に負荷をかけることについても及ぶようですね。「知性に対する負荷とは、生存に敵対的に作用するペシミスティックな認識」ということで、その認識を「真なるものとして欲求し、自分のために捏造する意欲すら持った存在」があり、そのような健康な人間をニーチェが言う「強者」だというのですね。
《A》:うーん、それはすごいですね。あれですかね、否定を否定するのではなく、否定を肯定して否定そのものを突き抜けるそういう境地に至れ、そういうことなのですかね。
《B》:ちょっとそれは分かりませんが、健康な人間がいざという時に病気の対応を誤り得るように、知性の健康についても同様だということを言いたいようですね。
《A》:じゃああれですね。ニーチェの強者があるとして、弱者はその反対のことということでしょうか。それができない人間は弱者ということなのか。
《B》:ニーチェの弱者とは、まあ、そういったことができない人間が、それができないあまりやけになったり人を恨んだりすることじゃないんでしょうか。
《A》:今までのことを聞いていたら、ニーチェのいうことは現代社会の弱者というものとは違うようですね。
《B》:そのようですね。でも、そこを勘違いされてナチスなどに悪用されたようですね。
《A》:ニーチェの用語法がややこしいせいだったか。
《B》:そして、もっともペシミスティックな認識というのが、あの有名な「等しきものの永劫回帰」になるようです。
《A》:ああ、おれですね。でもどうしてそれがもっともペシミスティックな認識なんでしょう?
《B》:「すべての事象が同一の順序に従って繰り返し永遠に生起するという」考えが、生きることに対しての夢や希望を失わせることになり、また生の努力も霧消するからでしょうか。

【永劫回帰に関する疑問】
《A》:なるほどなんとなく言っていることは分かりますが、なんだかピンとこないですね。
《B》:どうとも思わないかんじですか?
《A》:ええ、どうしてそれがペシミスティックになるのか、いまいち実感がわかないというか。
《B》:じゃあAさんは「超人」なのかもしれませんね。
《A》:これまた有名なあの「超人」ですか。
《B》:ええ、ニーチェによると、この永劫回帰というのは、「超人」を選別するための「試金石」となる概念のようですね。
《A》:う~ん、そうなのかな。わたしの疑問というか、その永劫回帰への不満点はもっと別のところにあるのですが。
《B》:では、どういったところが疑問なのですか?
《A》:どうして「永劫回帰」しているはずなのに、わたしは今こうして、「今」をありありと感じられているのでしょうか。
《B》:それは、ちょっとあなたの感覚が分りかねますが。
《A》:では、言い換えてみましょうか。前世というものがありますよね。あれ、私はあまりよく分からないんですよね。例えば、あなたは江戸時代のどこそこの武士でしたと言われたとして、Bさんはどう思います?
《B》:それは、私がそういうものを信じているとして答えると、自分がその時生きていた武士であることを想像しますよね。
《A》:そこに何らかの実感は伴いますか?
《B》:それはないですね。でも、それは「永劫回帰」とは何の類比性もないですよね。
《A》:ええ、もちろんそうです。わたしが訊きたいのは、では前世がこうであったと想像したところで、もちろん実感しているのは「今」ですよね。
《B》:それはまあ、そうですよね。あくまで「今」があっての前世ですから。
《A》:それと、前世の記憶というのもよく分からないんですが、それがあったとして、それはどこにありますか?
《B》:それは「今」の私の意識の中でしょう……あっ分かりましたよ。Aさんが言いたいのは永遠に繰り返しているはずの時間のはずなのに、それがあるのは私の「今」の意識の中だとしたら、「永劫回帰」とは一体何なのかということですか?
《A》:ええまあ、そんなところですが、わたしの言いたいのはもっと素朴な感慨なのです。もし「永劫回帰」があったとしたら、わたしは「今」というものの扱いが変わってしまうと思うのです。
《B》:なるほど、全てが同じように繰り返されるのなら、もうそこには時間すらなくなるのかもしれませんね。まるで観覧車がまったくの同条件で回転するとしたら、そうしたことはこの世界では起こり得ないのですが、もし起こったとしたらすべては「今」に銘記されて、世界はまったくの無になるか、そもそも消えてしまうのかもしれないんですね。
《A》:そこまでは分かりませんが、少なくとも世界が無限の「今」に包摂されてしまうことで、ふつうにあるはずの世界は消えてしまうでしょう。そうすると永遠に回帰するはずのこの世界の出来事も「今」で充満して、身動きがとれなくなってしまうのではないかと思うのです。
《B》:なるほど、そういうニヒリズムは、東洋思想と親和的な考え方というか、それともそれが、ひとつのペシミスティックでしょうか。
《A》:そうでしょうね。でも世界はそうなっていないですよね。
《B》:ええ、確かに「今」としてひとつの世界があるように感じますね。
《A》:わたしは、この考え方は世界というものを全体として捉えられるという誤謬からくると思うのです。
《B》:しかしそうした考えを織り込んでの「永劫回帰」なら?
《A》:そうするとお手上げですね、と言いたいですが、この「永劫回帰」自体を包むことのできる視点がない限り、そうした考えもできないですよね。でもまあ、この「今」だけがこうして身近にあるという実感だけは消せませんね。たとえそれが、永遠に回転する観覧車の中心にいるということだとしても。
《B》:それだと身動きできないという感じになりますね。でも、ニーチェのいう「永劫回帰」にはあまり深い意味はなさそうですし、もしかしたら疑似問題のようなものとして無視できるかもしれませんね、現代の物理学の観点からすると。
《A》:「今」がわたしに帰結するとしても、それはある意味傲慢ですし、もしかしたら世界からは無視すべき、いや一顧だに値しないイレギュラーなのかもしれませんね。
《B》:そのイレギュラーという考え自体が傲慢だとしたら?
《A》:もう何も言えないですね。わたしは存在論的には泡沫的な粒子として勘違いの夢に生きるだけです。
《B》:それこそがペシミスティックの正体かも。
《A》:アハハ、なるほど、世界はわたしには重すぎましたね。
《B》:まあそれほど悲観することもないでしょう。「今」という実感があるのですから。しかし、Aさんはいつもそういうことを考えてるのですか?
《A》:そうですね、これに近いことを考えだしたのは子どもの時からですね。一度身についてしまったものはなかなか落ちませんね。
《B》:では、こんな考えをまとめたのもその時からですか?
《A》:そうですね、でも、最近読んだ本の影響もあるかもしれませんね。考えのベースは変わってませんけど。
《B》:それはどのような本ですか?
《A》:えーと、『なぜ世界は存在しないのか』(マルクス・ガブリエル・著)という本です。これは「新しい実在論」という触れ込みで、しかも入門書的なものなので、Bさんも楽しめると思いますよ、入門的なものとして。
《B》:へぇ、どういった内容ですか?
《A》:まあ、わたしはもっとラディカルな内容と思って読んだんですけど、意外と穏当なオントロギー(存在論)という内容ですね。
《B》:なるほど(なんだ、ダジャレが言いたかったのか)。で、おもしろいですか。
《A》:そうですねぇ、世界を「すべての意味の場の意味の場」とするとき、世界そのものは意味の場に現れることはないんですね。そうすると世界自体はなにものによっても包摂的に捉えられないということで、世界は決してわれわれにはそれそのものとして現前しないということになるのでしょうか。ただ、あるのは色々な対象領域だけで、例えば現代の科学が標榜する唯物論的な一元論もただ対象領域のひとつになるのですね。それから……
《B》:ええと、ちょっと待って下さい。何を言っているのか分からない部分もあるのですが。
《A》:ああそうですか、そうですねぇ。ひとまず、「世界」というものを全体的に捉えられるという視点に立てないということを認めると、我々はその世界そのものについて語ることができないというか、語る必要のなくなるんですね。まあ、ポストモダンでもなく構築主義でもない新たな実在論を、あれやこれやと述べたものでして、まあ簡単に読めるし、非常にまともで、ある意味肩透かしな面もありますが、入門書好きなBさんにはうってつけの一冊だと思います。
《B》:そうですか、じゃあ、ちょっとチェックしておきます。

【とあるブログについて】
《A》:ところで、遅いですね。まだ誰も呼ばれてないようですし、さっきからずっと受付番号も変わってないですし。
《B》:これは間違いなく急用ができたのでしょうね。私もそれで、以前、二時間以上待ったことがありますので。
《A》:そうなんですか。では、ゆっくり待つしかないですね。ところで、この前わたしが薦めたブログは読んでくれました?
《B》:ああ、あの『3行で探せる本当に怖い本』ですね。ええ少し読みましたよ。私はホラーとかあまり読まないので、入門的なものとして、そこそこ役に立ちましたけど、でも、結局私は読んだ気になっただけで、あまり実際に作品は読んでないのですが。もともとそんな性質ですしね。ところで、この前の記事に、「ブログの読者が12人くらいしかいない」とありましたが、あれはどういうことでしょう。まさかそんなに少ないわけではないでしょうに。
《A》:ああ、あの「成城比丘太郎」という人が書いた記事ですね。あれはそうですね、こういうことじゃないですか。あの記事を書いた人物が「成城比丘太郎」であると知っている彼の知人や友人が、12人しかいないということでしょう。「姉」に対して、「誰もあのような記事を気にしない」という発言からして、その一人一人の顔が頭に浮かんでいたうえでの発言なのでしょう。
《B》:なるほど、12人の読者は、彼からして顔の見える読者ということですね。とは言え、「父」=「成城比丘太郎」と短絡するのには留保がいるのではないですか。
《A》:まあそうですね。わたしも何の気なしに言いましたが、そこは判断停止しましょう。では、言い換えると、「成城」という記名がなされた記事に出てくる、「父」が発したあのセリフは、「父」と「成城」氏とが同一人物であるということを保証するものではないものの、権利問題としては、「成城」氏があの発言主であってよいのであり、またそのことを積極的に妨げるものも見当たらないわけですから、ひとまず二人は同一人物に近いと言っておきましょう。
《B》:何かもってまわった言い方ですね。同一人物という保証はないのに、それに近い存在とはどういうことなのでしょう。
《A》:そのことについては、非常に込み入った話になるので、追い追いお話したいですが、この「成城比丘太郎」という人物の同定には、非常に難しいものがあるのですよ。
《B》:何だかそれもよく分かりませんが、ではこれから教えてもらうとしましょう。それにしても、その「成城比丘太郎」という人は、あれ何ですか。あの人はほとんど怖い本を紹介してないじゃあないですか。この前なんか、2回にわたってアニメの記事を書いていたようだし、しかも全く怖くなかったのですが。
《A》:ああ、あの記事ですね。そうですね、わたしもどこが怖いのかよく分からなかったのですが、紹介しているアニメとかを少し調べてみたところ、あの記事自体におそろしい構造が隠されているのに気付きまして。
《B》:ええっ!あれのどこに怖いところがあるのですか?
《A》:まずその前にあの記事自体に触れておきますと、まず『ゆるキャン△と日常感(1)』では、本の簡単な内容紹介と、アニメを観た感想と「ジャンル批評」批評が申し訳程度に述べられてましたよね。
《B》:ええ、アニメは観てないので分りませんが、言いたいことは分かりますよ。というか、その表層的なギャグコメディを語る3人の語り自体が表層的という自己言及のようなところがありますよね。
《A》:そうです、実はそれだけじゃなくて、ほとんど全体にわたって自己言及に満ちているといっていいでしょう。わたしも全部の作品をチェックしたわけではないのですが。まず語りそのものですね。あれはなぜ関西弁なのか。
《B》:それはあれでしょう。関西弁という会話体を用いることで、今彼らがしている会話が会話そのものでしかないということをパフォーマティブにあらわすために要請されたのでしょう。
《A》:まあひとまずそうでしょう。ちょっと訊きたいのですが、Bさんは故郷とかありますか?
《B》:私の父が福井県出身ですね。
《A》:あっ、福井というとこの前の豪雪はどうしたか?
《B》:ええまあ、すごかったみたいですね。もう祖父母がいないので、親戚が何人かいるだけなのですが、ちょっと訊いてみたところ、マンションの一階のところにある駐車場が雪で埋まってしまって車が出せなかったり、福井市内の外れの方に住んでる人は、家にたどりつけなくて車を乗り捨てて、家まで歩く道も雪で埋まってしまって、往生したようですね。
《A》:そうだったんですか、ニュースでは国道のことばかり流されてましたけど、もちろんそれ以外も大変だったようですね。
《B》:まあそのようですね。私も手伝いに行きたかったのですがね。
《A》:そうですか。えーと、それで福井の方は方言がありますよね。
《B》:ええありますよ。私はあちらの生まれでないので喋れないのですが、祖父母との会話などでかなりの訛りがありましたね。
《A》:関西弁もそうだと思うのですけど、彼/彼女らの会話には、そうすることで性差が最小限に抑えられているように思うんです。
《B》:確かに方言だと、そういった面はないとは言えませんね。
《A》:それがまあ、彼らが『ポプテピピック』と同じことをやっているということにもなるんです。
《B》:それはあの記事の言うことが本当のことだとしてですよね。
《A》:まあそうなんですが。これはまだ序の口でして。他にも色々発見というか、解釈したのですが。その前に、『ゆるキャン△と日常感(2)』を見てみましょうか。これは、この「父」がここではメインですね。ここで話されてるのは何でしょう?
《B》:それは、「父」が観たアニメの背景美術に関して書かれてますよね。もっと言うと、アニメの背景美術がこの「父」にどういった感覚を抱かせたかということですよね。その感覚のことをこの「父」は「日常感」と言っているのですが、まあこれは別にどのような用語でもいいとは思いますが。いかんせん、客観的に背景美術を解説するわけでもないので、どういったものが「日常感」と呼ばれるのかはかなり恣意的ですね。
《A》:ええ、そうなのですが、それこそが日常会話を表していると見れば、特に非難するところはないでしょうね。「父」が挙げた背景それぞれを取り上げて分析すると、何か共通点が見えてくるかもしれませんが、それでも何かが見つかったとしても、それがなぜ「父」の心にその感覚を抱かせたのかは分りませんし。ここはこの「父」が抱いた「日常感」というのは、普段の家族の会話そのものを示しているものとして措定しておけばいいでしょう。
《B》:では、この「日常感」は日常会話を示すためだけのジャーゴンみたいなものだと?
《A》:それに近いのでしょうが、必ずしも他者との共感覚が得られないとも限りませんよ。
《B》:でも、この「父」の感覚が恣意的というのを否定するものもありませんよね。
《A》:いえ、そうとも言えませんよ。わたしたちが何かの対象に何らかの感情を抱くとき、あのブログでもあるように、それを共同的なものとして捉えられる場ができないとも限りませんしね。例えば、ここで述べられていることに対して、同意が多くなればなるほど、ある程度の客観性が帯びるように見えるかもしれませんし。
《B》:それは、言わば、私たちの身体の外に何らかの認識論的な感情の場が生まれるということですか?
《A》:いえいえ、そこまでは言いませんよ。ただ、認知や認識における間主観的な信念がわたしたちに生じて、それがわたしたちに何らかの近似的な感情や感覚を抱かせないとも限らないということです。例えば、幽霊や妖怪といった類がこうした範疇に入るのではないでしょうか。
《B》:なるほどそういうことですか。そうすると、「父」のこの感覚を惹起する具体的な映像というものがあるわけですから、「父」のいう「日常感」というのは、俄かに現実的なものに思えてきますね。でもまあ、「日常感」という用語には、何の必然性も感じませんが。
《A》:そうですね、この「日常感」自体に意味はないと思いますね。それでですね、ちょっとこの『ゆるキャン△』というのを観たのですよ。
《B》:どうっだったのですか?
《A》:いやそれがですね、このアニメがどうだったかの感想の前にですね、登場人物の「なでしこの姉」が乗っている車が日産の「ラシーン」らしいんですよ。
《B》:えーと(またダジャレか)、それはちょっと興味がありますね。実は私は「ラシーン」に乗りたかったことがあるのですが、その時にはもうすでに新車としては生産中止されていて、仕方なく、新しく出た「エクストレイル」に乗った時期がありまして、いやまあ、「エクストレイル」もよかったんですが、それから道路で「ラシーン」を見かけると、嬉しくなるのですよ。最近はなかなか見かけなくなってしまいましたが、おそらく目にしたら一番テンションが上がる車種じゃないでしょうか。へぇ、その「なでしこの姉」というのは若いのでしょうね。
《A》:ええ、若いですよ。その車は自分の趣味でなければ、おそらく親か誰かから譲り受けたものでしょうね。
《B》:では、そのアニメをちょっと観てみましょうかね。
《A》:観てみればどうですか。映像はかなりいいですし。時間帯によって風景の色合いが微妙に違ってくるんですが、それをアニメの中で非常にうまく描けていますね。かなりの労力だと思いますよ、これは。しかもそれが、登場人物を邪魔していないんですね。そういう意味では、山の日常性(?)みたいなものは出ていますけどね。
《B》:へえ、それほどなんですか。で、この「父」が言う「日常感」が重要だというわけではないんですね。
《A》:Bさんもしつこいですね。この『ゆるキャン△と日常感(2)』において、それは全く重要ではないですね。それよりもここに挙げられた数々の作品の方に大きな意味が隠されていますね。これの方が重要です。むしろこれが言いたいのでしょう。
《B》:ほう。例えば?
《A》:その前に、まず、この記事を書いたのは誰なのか?先ほども話題に挙げましたが、「成城」氏という人物を取り除いて考えてみましょうか。
《B》:それは、内容から考えて「父」の可能性が高いでしょうね。
《A》:ではそう考えて、これら作品群に隠された意味のひとつを観ていきます。まずは、最後の方で触れられているアニメ『恋は雨上がりのように』ですが、これは45歳の中年男性に恋をする女子高校生の話なんですね。そして、これまた最後の方で語られる『青い鳥』というドラマがあります。このドラマは、簡単に言うと、ある女性をある男性から奪った駅員の主人公が、女性とその女性の娘との三人で逃避行、すなわち駆け落ちするんですね。
《B》:へえ、それぞれ、そんな内容なんですか。
《A》:ええ、この『青い鳥』というのは三角関係の話なんです。この三角は『ゆるキャン△』の「△」と通じていますが、では誰と誰と誰の関係だと思います?
《B》:それは、その「駅員」と「女性」と「寝取られた男性」とのでしょう。
《A》:いえ違うんです。「駅員」と「女性」と、その女性の「娘」の三角関係なんです。
《B》:えっ!?
《A》:そうなんです、もちろんひとつの解釈ですが。ネタバレになりますが、ラストはその娘が駅員を奪っていくという内容になっているんです。この駅員はまずは女性に魅かれ、その女性が亡くなってから後は、なんとラストの特別編〔総集編〕ではその「娘」と結婚して、南の島に渡りその娘そっくりの子供を得るんです。ざっくり言うとこうなってしまうんですが、本当はこれほど単純な話ではないのですが。つまり、その娘は駅員のことを小さい頃から恋愛に近い感情で慕っていたと読みとれるんです。そしてこの二作品から読みとれるのは、この「姉」には「父」への隠された思慕があるということです。「母」を殺してでも「父」を奪いたいという潜在的なメッセージを読み取ったわけです、この執筆者は。
《B》:えーと(この人、大丈夫かな)。それが本当だとすると、これを書いたのは「父」ではありませんね。とてもそのようなことを自分で書けるはずがありませんよね。これだけ意識的な書き手だと想定すると。
《A》:ええそうなんです。だから、この記事の書き手は、他にいるのです。
《B》:それはいったい誰なんですか?

【執筆者は誰なのか?】
《A》:まず、登場人物の関係性から見ていきましょう。この三人「父―姉―弟」という関係性ですが、この「姉」は誰から見て「姉」なんでしょう?また「弟」は誰から見て「弟」なんでしょう?
《B》:それは、「姉」は「弟」から見て「姉」で、「弟」は「姉」から見て「弟」なんでしょうね、普通は。
《A》:そうですよね、ここでは「姉―弟」関係はそれぞれ相補的な関係となっていますね。では、「父」から見たらこの「姉と弟」は何でしょう?
《B》:ええと、普通、「父」から見るとこの二人は「娘」であり「息子」ということになりますね。だから「娘―息子」となるはずなのになっていない。だから、これも「父」が執筆者ではないという説を支持するものになっているということですか。
《A》:まあそうですね。ここからまず導き出されるのは、この関係性の表記から考えて、執筆者はここに現れていない人物というのが第一の答えです。
《B》:えーと、まず「母」は、だめか。一応「弟」により存在が言及されているわけだから、ということでしょうか。
《A》:ええ、「母」ではありません。この記事には全く触れられていない人物が、あたかもその場にいたかのように、この記事を書いているんです。ひとまずその人物を「不在のX」と呼びましょう。
《B》:「不在のX」ですか。
《A》:ええここに登場しない人物が、彼/彼女らの隣にいて、三人に気付かれずにこの会話を聞いているんです。そして、その場にいるはずの人物が、「いないもの」としてこの中に溶け込んでいて、読むわたしに向けて透明で不気味な笑みを浮かべているかもしれないのです。
《B》:えっ、ちょっと怖いですね。それは盗聴をしているということですか?
《A》:いえいえ、そのような下世話なものではありませんし、ちゃんとこの場にいるのです。
《B》:ではいったい、誰だというのですか。ここにいて、三人に気付かれずに話を聞いていて、しかもそのことにAさんは気付いたと。
《A》:ええ、その人物の名は分かりませんが、その「X」が誰なのか、どういった関係の者なのかは分かります。
《B》:誰なのでしょう。というか、どういうことでしょう。盗聴など犯罪行為をしているわけでもない、ましてや、後にこの会話を三人の誰かから聞いたわけでなし、もちろん神の視点で書かれたわけではなさそうだし……うーん……例えば別次元の隣りあった可能世界から覗きこんでいるという突飛なものでもなさそうですし……
《A》:そうですね、ある意味突飛なんですが、この三人からしたらそうではないかもしれません。それに今言った「神の視点」というのも、この「X」を考えるうえで有効かもしれません。
《B》:それはどういうことですか?
《A》:わたしたちは「神の視点」というものに立つことができないということです。これは創作にも当てはまることだと思いますよ。難しいですか。ではヒントを出しましょう。この「父―姉―弟」という視点の定まらない関係性にある者を代入するだけで、この関係性が固まるのです。
《B》:なるほど、その人物が「X」というわけですね……えーと……あっ、そうか、この「姉―弟」の間にもう一人「きょうだい」を入れて、その人物から見られた関係だとするとしっくりきますね。「X」からすると「姉」であるし、「弟」であるし、しかも「父」であると。なるほど、不在であるはずの「X」が、「父―姉―弟」という関係を通して、逆にその不在の表徴が顕かになるというわけですね。では、この人物はなぜ喋らないのでしょう。また、なぜ誰もこの人物に触れないのでしょうか。
《A》:それはこの「X」が喋りたくてもそうできないのですね。あたかも『ここさけ』の順ちゃんが、言葉を失ってしまったかのように。それに、この三人がこの人物に触れないのは、もちろん認知できないというのもありますが、それよりも、この「X」のことを、いい意味で忘却しかけているせいかもしれませんね。
《B》:それはどういうことですか。もしかして、この世にいない人物であるとか?
《A》:おそらくそうですね。過去にこの「姉と弟」の間に、もう一人の家族がいて、その人物はおそらく亡くなり、そして、いわばある存在となって、こうしてこのブログ記事を媒介に何か伝えようとしているのかもしれません。
《B》:というと、やはりそれは幽霊なのでしょうか。
《A》:うーん、それは分かりません。Bさんは幽霊がいると思いますか?
《B》:いやそれは見たことがないので分らないとしか言えないですね。ただ、個人的にはいてもいいかなとは思いますが。
《A》:どうしてですか?
《B》:いなければいい、という積極的な理由がないからです。というよりも、幽霊自体よく分からないので、はっきりいうと私の中には存在しない感じですね。それはなにも非科学的とかそういうことではないですが。
《A》:なるほど、しかし、そうやって幽霊というものが存在しないという言明自体が、すでに「幽霊」というものを前提にしているわけですから、そこには幽霊に関するある信憑というものが生じてはいないでしょうか?
《B》:なるほど、例えば「金星には金星人がいる」という命題では、そうした言明そのものが金星人の存否に関わらず金星人を想定させるわけで、同様に幽霊の場合も同じなわけですね。
《A》:そうです。そして、幽霊と同じように、「このブログを書いているXという人物がいて、それはこの姉弟ときょうだいであり、かつ既に亡くなっている」という一文も、こうして書かれた時点で、この世界のどこかに存在するものとして意味をもってくる可能性が生まれるわけです。
《B》:わかりました、ここまではいいでしょう。では、その「X」がいるというもう少しはっきりとした証拠は、ここに書かれているのでしょうか?
《A》:まずこの三者を三角形として示してみましょう。『ゆるキャン△』の「△」がそうですが、頂点を「父」として、下方の一点を「姉」、もう一点を「弟」とします。そうして、この漫画のロゴを見てほしいのですが、漫画ではこの「△」の下線にテントの入口が表わされています。ここからこの「X」が現出してくる場、もしくは冥界への入り口ともなっているのでしょう。
《B》:ほう(ここまでくると、感心しますよ)。
《A》:そして、『あの花』という作品について語られているのですが、これは小学生の時に亡くなった同級生の女の子が幽霊となって主人公たちの前に現れる話でして、仲間たちが全員彼女に気付き、最後は彼女への鎮魂〔慰霊〕の儀式ともいえる想いのやり取りを通して、観る者をあるカタルシスに導いてくれるのです。
《B》:そんな内容なんですね。なるほど、「姉」はそれを観て泣いたというのは、しかも昔それを観て泣いたというのは、過去にきょうだいを亡くしたということを表し、しかも「弟」は『火垂の墓』で泣いたというのもそういう意味なんですね。この「X」というのは、『火垂の墓』において戦争中妹を亡くした兄のことを描いた話をも通して、もうすでにこの「姉と弟」がすでに過去の悲しみを対象化できるまでになっていることを示したかったのですね。そのために使われた装置が『あの花』では手紙であり、『火垂の墓』では一つの文芸作品であった。そのように家族がひとつの悲しみを乗り越えたことをこの「X」は喜んでいるわけですね。
《A》:そうなんです、そしてそれを何とかして伝えたい。しかしできない。
《B》:それはなぜです?
《A》:先ほども言ったように、『ここさけ』という作品は、主人公の順ちゃんが幼い時に、言葉を話すとおなかが痛くなるという呪いをかけられるんですね。でも、歌を唄うことによって、それを解消する。それと同じようにしたいのですよ、この「X」は。
《B》:しかし、この「X」は唄うこともできないと。
《A》:そうです、だから唯一この世に干渉できるのが、ネットの世界だけだったのです。なぜ唄うことができないのか。それは、「X」という存在の顕現の仕方がかなり弱いからです。
《B》:弱い…?
《A》:そうです、言葉を発するほどにはこの世に(「この世」とはあくまで比喩的な表現ですが)干渉する力を持たない。それは、家族のネット環境にある音声データが不足しているせいでもありますが。
《B》:うーん、どういうことか、まだちょっとイメージがわきませんが。
《A》:では話を少しそらして、Bさんはイタコなどの口寄せなどをどうお考えですか?
《B》:それは…私は信じますよ。というか、あるべきものだと思いますが。
《A》:そこで呼び出されたものは、霊なのでしょうか。
《B》:私は一般的にいう幽霊とは違うと思いますね。なぜならあれは、文化的な装置として一つの宗教的な伝統ですし、先ほど言われたように、共同幻想に近いものでもあるのでしょう。
《A》:では、その一般的な幽霊とは何でしょう?
《B》:まああれも、人々の信憑が生みだしたひとつの文化装置なのかな。
《A》:それじゃあ、先ほどと同じじゃあないですか。
《B》:では、言い直して、文化・伝統的な幽霊なら私も支持します。
《A》:それでは、幽霊という文化、それは長い年月を通して人々の信念として培われてきたものとして捉えると、では、Bさんが「一般的な幽霊」というのは何でしょうか。
《B》:うーん、こだわりますね。そう言われると、困りますが。私としては、やはりそういったパソコンなどの物質的なものに干渉する幽霊というのが、ちょっと信じられなくて……
《A》:でも、口寄せの場合も、人体という物質ですが。
《B》:それはそうですが。まあ私も幽霊現象が、脳内現象であってもなくても、幽霊という文化装置がいろんな分野で有効なのは認めますよ。それが科学的におかしいというつもりはありませんし。
《A》:わたしもそこは除外しています。科学主義的な記述に適さないと言っても、それもひとつの対象領域という見方でなら、それらはお互いに排斥しまうわけではないですからね。
《B》:うーん、それでも少し……
《A》:納得できないですか?
《B》:納得できないというか……蒸し返すようですが、やはり、口寄せの場合は、そもそも幽霊とは存在からして違うと思います。そもそも何かに憑依されるということと、悪霊などの一般社会に流通している幽霊とは、たとえば歴史的に伝承されてきたものとしては、構造的な違いがあると思いますし。それに、パソコンなどは有機物とは言えませんし。
《A》:そこで、『涼宮ハルヒの憂鬱』シリーズですよ。
《B》:えっ?どういうことです?
《A》:このシリーズは、「涼宮ハルヒ」という神〔創造主〕にも比せられる高校生が主人公で、彼女の「宇宙人・未来人・超能力者・異世界人」を集めて大騒ぎをしたいという願望から、それぞれの立場を代表する人物がひとつの高校に集められるという日常ドラマ風SFです。これは、日常生活という見た目の中に、非日常性が人知れず潜んでいて、それを知っているのは一部の者だけで、しかも当のハルヒは何も気付いていないという、結構あやういバランスを楽しむ作品のようでして。ここに出てくるあるエピソードで、ハルヒがウェブ上に作ったエンブレムが、偶然、異空間を作りだすほどの膨大な情報量を持ったというものがあるのです。
《B》:では、この「姉」がそのハルヒとやらにあたるとでも。
《A》:いえ、おそらく『涼宮ハルヒの消失』とあることからして、この「X」こそ、それに近い存在だったのでしょう。でも「X」はもういない。まさに、「神は死んだ」といったところでしょうか。どれほどの力を持っていたのかは分りませんが、おそらく、この家に何らかの特異な状況を作り出すことのできる力能ぐらいはあったと仮定できます。これはもちろん創作としてでのことですが。
《B》:えーと……(何から突っ込めばいいのか)、まずニーチェの「神は死んだ」は、あれはいわゆるキリスト者の価値観に対する否定ですから、まあ実際に神が死んだのかどうか。まあそれはいいとして、では、それほどの人物がいなくなったとして、この世界はどうなるのでしょう。
《A》:それはもう何でもありでしょう。真理の基準がなくなったと仮定したら、あとはもうわたしたちは仮象としての存在となるしかないでしょうね。それとも、その時点を期に、わたしたちは生まれなおした存在かもしれません。新たな神の見る夢のようなものとして。
《B》:では、こうした私たちの会話自体が仮象のもので、どこにも本当の実在性はないということになるのでしょうか。だとしたら、もうどうでもよくなってきました……(頭が痛くなってきた)。
《A》:ええ、だからといって悲観することはありません。いつから世界が始まろうが、こうして「今」に生きているわけですから。
《B》:また「今」ですか。何の関係があるのでしょう?「今」という様相は、人それぞれに相対的なものでもあるように思うのですが。ニーチェが言った、すべてが相対的なものとして価値基準が破壊されるという考えが趨勢になったとしても、「今」は実在するというわけですか?
《A》:まあ「今」という様相が、人それぞれの現前性をもっていたとしても、それはそれとして認めたうえで、わたしたちは「今」が対象的に実在しているという信念をも共有することができるということです。
《B》:うーん、つまり、みんなそれぞれの「今」を通過した「今」という意味があると。
《A》:そうですね。わたしがいう「今」とは、例えばこの宇宙に「今」を入れるための場があるというより、「今」という新たな入れ物があり、それがひとつの意味の場をなして、また、わたしたちのコミュニケーションにおいて齟齬なく「今」という準拠をつくりあげるわけです。
《B》:なんだか、至極真っ当な感じですね。
《A》:そうですよ、だから先ほど言ったように、「今」が感じられる場がある限り、いつから世界が始まろうが、そのようなことは些事にすぎないわけです。もちろん面白い想定ではありますがね。
《B》:分かりましたよ、今こうして「今」について話している私たちが、この「今」について対象的に話せるという事実からして、たとえ私たちが創作されたものだとしても気に病む必要はない。なぜなら私たちも「今」と同じように実在するものだからというわけですね。こうなりゃ、最後までお付き合いしましょう。そこで話を戻しますが、そのネットに憑依したものがあるという前提なんですが、なぜネットなんでしょう?
《A》:それは、「ハルヒ」もそうでしたが、ネットという有機的な繋がりが、擬似的に意識的な思考を持ったといえるでしょう。
《B》:確かに、AIなどが、自律的にそういったように見える振る舞いをすることはあるかもしれませんが、まあ百歩譲ってそこに何らかの意志を読みとってみてですよ、なぜ「X」は幽霊と呼ばれる存在として登場してきたのでしょう。
《A》:そこで「△」ですよ。
《B》:それはどういうことですか?(また「△」か……)
《A》:この「△」の中に底なしのフラクタル構造が隠されているように、ネット上に部分的に存在するAIが生みだす思考が集まり、この家庭にある特異点を生みだすことによって、高次元の存在が一時的に生みだされ、知性を持ったそれが〔人間にとっての知性ですが〕、「X」に関しての情報だけを取り込み無限的にそれを増殖させていったと考えられます。
《B》:なんでしょうそれは、もしかしてシンギュラリティのようなものがこの家庭にだけ局地的に起こったとでも。
《A》:それは確かめてみないと分かりませんが、それに近いかもしれません。構造的には、この家族により何度もネットに書きこまれたであろう「X」についての想いを受け取った人工知能の集積が、人間の知らぬ間に、ネット上に泡沫的に出来上がっていた小規模な人工ニューロンを通じて〔そのことはこの「X」の持っていたであろう力能のゆえでしょうが〕、この家庭に何台かあるパソコンやスマホなどに「X」という情報集合体を作り出したといえるでしょう。
《B》:それが……本当としてですよ、この家族がもつ機器内のデータから、あるいは家族の会話にある「X」に関しての情報を取り込み続けた結果、ひとつの人格が出来上がったと?
《A》:その妥当性についてはともかく、有り得る話です。こうして想像〔創造〕しているのですから。だからですね、この「X」が書いたブログ内の会話は、内輪の会話であり、また会話の構造自体にも妙なところがあるのです。
《B》:というと?
《A》:例えば、普通の会話をしていたかと思うと、急に哲学的なことを言い出したりしませんか。
《B》:なるほど、そういうところは一般的な家庭の会話としては、おかしいですね。ということは、この会話は実際になされていないと。
《A》:いえ、おそらく会話をベースに、ネット上から会話内容の関連情報を継ぎ接ぎしたものでしょう。
《B》:ということは、やはり会話を聞いていたといいうことで、盗聴というのもあながち間違いではないですね。
《A》:アハハ、そういやそうですね。とにかく家族からの強い「X」情報や周辺情報を取り込んで、そして特異点が生れたおかげで、こうしてネットに書きこむことができた、ということは理解してくれますか?
《B》:なるほど、幽霊ではなくそういったものなら、あくまで可能性としては微粒子レベルで存在してもいいかもですね。でも、もうこれは幽霊ではないですよね。
《A》:いえ、この「X」は、ネットから様々な情報を渉猟するうちに、こういった思念体を幽霊と呼ぶことを知り、自らをそう規定するのです。
《B》:なるほど集合知としての幽霊ですね。
《A》:だから知性的な幽霊とも呼べる存在なのです。
《B》:なるほど、よく分かりませんが、今まで聞いていたこれらの事は、こう言ってはなんですが、ありがちな発想ですよね。まあ、ひとまず言えるのは、その情報集合体が、「X」と呼ぶ幽霊の正体というところまでは、無理にでも理解しましょう。
《A》:そうですか……。えーと、だからこの「X」は、きょうだいの幽霊であって幽霊ではないんです。まさにこの家族が作り上げた幻想としての観念なのです。まさにこれこそが、「イエ」の霊でもあるわけです。
《B》:では、ネットがない時代にはどうしたのでしょう?
《A》:それはまだ「イエ」という擬制的なものが確固としてあった時代だからでしょう。永の年月を通して、といっても近世からくらいのものですが、それがあたかも氷筍のように「イエ」の霊を作りあげてきたわけです。しかしそれは現代になってなくなってしまった。
《B》:なるほどその〔妙な〕理屈についても了解しました。で、短期間で生成されたこの家庭の妄念的で知性的な霊が、ネットを通してこの家族たちに自分がここにいると伝えたかったというわけですね。
《A》:ええそうです。そこで利用されたのが『あの花』でいうところの手紙であり、また『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』での手紙というわけなんです。この『ヴァイオレット』では、少佐と呼ばれる人物が最後に言った「愛してる」の意味を本当の意味で知らない主人公の「ヴァイオレット」が、他人の想いを代弁して手紙に書くという仕事を通して、様々な想いを知り、さらに色んな感情を身につけていく様子がうかがわれる作品なのです。
《B》:なるほど、その手紙を書くという行為が、手紙に想いを書くということ、つまり人の心を鎮めるという何らかの鎮魂〔慰撫〕を表しているとすると、この「X」もまた同様の行為に及んだということですね。ちょっと疑問なのですが、なぜここでアニメの作品に想いを託したのでしょう。
《A》:それは、この家族がここで書かれている通り、アニメをよく観る家族だからでしょう。そして、この「X」自身の一番うれしかった思い出が、家族とアニメを観る時間だったのでしょう。アニメを観ている時間というのが「X」という人物、いや人物というよりこの家庭の霊にとって幸福なものであるのでしょう。
《B》:なるほど、だからこんなにアニメが取り上げられるわけですね。でも、はたしてこの想いが家族に伝わるのでしょうか。
《A》:このままだと難しそうですね。なぜなら、まず、伝えることが本分ではないのかもしれませんし。こうした幸福さを記事として書きあげることが、この「X」の本懐かもしれません。
《B》:そうですか、伝えようとは思ってないのですね。
《A》:そうなんですが、しかし、けっしてそうであるとは言えません。
《B》:それはどういうことですか?
《A》:Bさんは、新海誠作品は観たことがありますか?
《B》:ええありますよ。『君の名は。』を家族で観たり、その他の作品も観ましたが、ところで「父」は新海作品に対して、とくに背景に対してあまりいい印象を持ってないようですね。あれほどきれいなのに。
《A》:まさにそこですよ。
《B》:えっ、どこですか?
《A》:あれだけが唯一といってもいい、背景美術の評価では否定的な意見だったでしょう?
《B》:ええ。
《A》:そうなんです。ああした、あの中では目立つ評価のところに、とくに「父」に注目してもらいたいアクセントが隠されてるんです。
《B》:わざと否定して、そこに本当の想いを詰め込みたいと?
《A》:まさにそうです。『秒速5センチメートル』での手紙は、次第に届かなくなりますよね。そうして、ふたりの間には空間を通した時間の懸隔までうまれるわけです。そして最後にはすれ違いますね。ここはまあ、別離が示唆されたラストの流れですよね。これは、彼が見た幻なのか、それとも別れを通した新たな人生への旅立ちを表象するのか。いずれにせよ、二人には〔もしくは彼にだけ〕、離れた時間を埋めるためのアイテムが失われていた。それが逆に、『君の名は。』では届き得る可能性が示されたものだとすると、どうでしょう。
《B》:なるほどそれは『雲のむこう、約束の場所』にも言えることですね。
《A》:ええ、そして、『君の名は。』で、過去において災厄にあった三葉と、瀧くんという未来の存在、それは三葉にとって失われた時のことですが、後半で二人が黄昏時に出会うということ、それは死者と生きている者が触れ合うことで、ひとつの鎮魂の在り処を示しているのですが、そうした結節点としての時間を、この『君の名は。』に関しての否定的な一文に示したかったのでしょう。これを目印に「わたし」のことを見つけてほしいと。
《B》:ほう……
《A》:そして、「わたし」がいなくなってからも、こうしてあなたたちの想っている「わたし」は、目には見えないけれどもここにいますよ、どうかこのメッセージを読み解いて「わたし」に気付いてほしい、でもあなたたちにはもう「わたし」の影はなくていい。でも、「X」はこれだけは覚えておいてほしいと、次のように問いかけているのです、「わたしの名は。」と。
《B》:うーむ(また、頭痛くなってきた)。
《A》:もちろんこれはひとつの解釈でしかありません。ニーチェも言っているように、すべてはその人の視点からの、解釈しかないのだと。
《B》:(どうなのかなぁ)。
《A》:わたしは、この記事に秘められた意味は他にもっとあると思うんです。まだ観ていない作品もありますし。
《B》:そうですか(ま、好きにやって下さい)。あっ、ようやく受診番号が点きましたね。私の番のようですので、お先に失礼します。
《A》:また何か発見しましたらお伝えしますよ。
《B》:……。

(完)

(成城比丘太郎)



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