- 実況感覚でおくる哲学書読解と、<哲学>実践。
- 特に何かに役立つわけではないのが、この塾のミソ。
- 哲学的センスのない人は、哲学書を読む必要がない。
- おススメ度:★★★★☆
哲学者中島義道が、<本当に>哲学をしたい人を募って、「哲学書を読み解く」現場をつくったのが「哲学塾」。本書の内容は、その「哲学塾」での様々な哲学書読解のライブ実況といったもので、一読して大学の講義風景のようだ。著者が「文庫版のあとがき」で書いているが、現実には本書のようにスムーズな対話がなされるわけではなく、時には停滞したり、自説を頑強に述べるものがいたりと、少なからぬ苦労があるようだ。
本書には、その現実とは違い、理想的な光景が選び抜かれて書かれている。「たぶんここにはどの大学の哲学科よりも充実した空気が流れているであろう。」という著者の自負の通り、その理想が実現した一端は感じられる。読んでいて、素晴らしい哲学実践の場が開かれている。「哲学塾」とは、学校講義(の一部)のように、ただ単位を取るためだけの無味乾燥なものではなく、まさに<哲学>するための場なのである。
この本で取り上げられるのは、いずれも西洋哲学(近代以降のもの)で、塾としては主に「ギリシャ哲学から20世紀に至るまでの西洋哲学」を学んでいる。なぜ西洋哲学が主かというと、現在の日本を含め世界が、「諸科学の発展と手を携えてきた」西洋哲学の精華によって成立し、またそれらの枠組みもまた西洋哲学に拠っているからなのだろう。しかし、それを知るためだけに哲学書を読むのではない。まずは、哲学書を読むことで、日本への(西洋)哲学的思考法の影響と、それへの「違和感」を知ることが大事だという。中島(の塾)にとって大事なのは、その「違和感」を自覚しつつ哲学の諸問題を自分のものとして考えることなのだろう。そのためにはきちんと哲学書を読まなければならない。
ここで注意しなければならないのは、中島は哲学書を何かの道具として(自己啓発目的とか、教養目的とか、社会に役立つものとか)読むことを推奨しているわけではないということだろう。この世界の「真理を求める」人向けに、この塾を開講したというようなことが「はしがき」には書かれている。つまり、どうしても「真理」とやらが知りたいが、哲学書の読み方も、<本当の>哲学の仕方も分からない人がこの場に集ったということなのだ。もちろん、そんな人ばかりではないのだろうが。
「粗っぽく言ってしまうと、ただ『一つの』真理があるとし、それを言語によって正確に記述できる、という信念のもとにいる」「哲学者」(p218)に倣って、この場では教師が一方的に生徒に教える形をとらずに、生徒自身も考え、それを言語化し、質問や反論しなければならない。そのために、哲学書に書かれていることを正確に読み解いていくところからはじめる。正確に読むにはある程度の哲学的センスも必要になる。例えばニーチェ『ツァラトゥストラ』読解の章で、参加者の女性がニーチェを読んだことがなくても、ニーチェを「正確に読」んだ場面がある。これなどはセンスのあらわれだろう。
独学で、どうしても細部を適当に読み流してしまう私にとっては、実に羨ましい環境だ。最後に、取り上げる哲学者についていうと、ロック、カント、ベルクソン、ニーチェ、キルケゴール、サルトルの順で読んでいく。哲学の歴史は先達を批判的に継承していくので、本書の流れも、一部そのことが読み取れるようになっている。また、これら哲学者の思考法や問題意識のどれが読者に合うか、合わないかも感じられる。特にベルクソンからサルトルにかけては、日本の文学者などに大きな影響(多くが誤った読み方のようだが)を与えてきたので、それら哲学者が何を問題にしたのかを(その一部でも)理解できるのはありがたい。
(成城比丘太郎)
(編者注)哲学は私もかじったことがあるが、何しろ難解なものも多い(純粋理性批判とか)。ただ、基本となる考え方は面白く、思考のトレーニングにはこれ以上のテキストもない。なんとなく「怖い」印象があると思うが、案外楽しめるものである。問題は、完全に理解したとしても「人生を生き抜く知恵」とは無関係ということ。「死に至る病(キルケゴール)」「人生論(トルストイ)」なども読めば良くわかるのだが、ブラック企業には無意味。むしろ「ソフィーの世界」あたりから楽しんで読んでみるといいと思う。
(きうら)