- 読書メモ(036)
- 少女のやり場のない憤懣を、様々な暴力として表現
- 「死」のありさまを夢想する少女
- おススメ度:★★★☆☆
【はじめに】
おそらく、これが平成最後の投稿になるかと思います。私は、人生のほとんどを平成に生きてきました(昭和のことを意識して生きたのは8年にも満たない)。なのですが、とくに平成に思い入れがあるわけではなく、これからの時代においても何も変わるもんはありゃしません。それは、たとえば遠島の措置にあった人が本土のしきたりに焦がれるもののやがてそれに飽きてしまいというか時間の観念が停滞して本土の慣習からはおのれの精神ごと遊離してしまい、現在が昭和94年だろうが平成31年だろうが令和元年だろうがどうでもよくなるのといっしょです(なんのこっちゃ)。
【本書のあらすじ】
さて、本書についてです。主人公の、石田有子(ありこ)は感受性の強すぎる、小学5年生。本書が昭和55年発表なので、その時代辺りが舞台なのだろう。彼女の家族は、母親が一人だけで、父親は心中して死亡し今はもういない。彼女は時々、海に上がった腐乱した死体やいろんな死体の夢を見たりする。それは父親のものだろうか。有子は母親と一緒に、叔母家族の家に居候している。そこは叔母がやっている食堂で、叔父とイトコとがいる。しかし、叔父は他に女をつくってたまにしかよりつかない。イトコの中には、体の弱い子どもが一人いる。
有子は、学校で、自分の父親が人殺しと言われていると聞いて、その発言をしたとする同級生の女子を連れだして、もう話さないようにと脅迫する。また、別の女子が言う「片親」という発言にもキレて、言いようのない怒りを同級生たちにぶつけまくる。そして有子は、怯える同級生に「快感」をおぼえたりする。さらに有子は、砂場で遊んでいる小さな子どもの髪をつかんで、その子が掘っていた穴にその子をおしつけて窒息させようとするまでに、その行動をエスカレートさせる(これは殺人未遂なんだが、その後、この話題が作品で語られることはあまりない)。
そのあと、有子は知り合った入院中の女性と、その恋人の男性との三人で、親しそうに付き合うことになるように見えるのだが、有子としては、大人たちの彼女への親しみに対して、それを素直に受け入れることはできない。そして、ある事件が起こるのだが……
【感想など】
さて、本書を読みはじめて、作者の津島佑子自身のことは頭に入れないで読もうとしたのだけども、それは無理、というかそんなことしてもしょうがないとわかってからは、作者のことを頭に入れつつ読んだ。そうすると、かえってすんなりと読めるようになった。今だからこれを読んでも、すんなりと読めるのだろうか。
主人公の有子は、小学生なのだけども、どうしても大人としか読めない時がある。それはとくに、彼女が大人へとつっかかっていくところとか、暴力的な場面において、なぜか「光」が自分の身体に入ってきて、どこか法悦状態にも似た感覚に溺れるように書かれているところとか。それは読んでいて変に思うところもあるけれど、妙に有子の感受性のありようとして納得できてしまう。
それと、小林という25歳くらいの男性が作品後半で重要な役割を果たすのだけども、この小林の容貌が、作者の父親である太宰治にしか読めなかった。こういう読みはアカンかもしれんけども、この小林に付きまとい突き放されるところは、これはなんとなく父親との折り合いを、文学的につけかたのかなとも思った。
まあ、こういう傑作ではない作品の方が、個人的には好きではある。読んでよかったとは思う。ほんで、有子自身が時に感じる、まわりの情景との一体化に恍惚となるところがあって、そこがよかった。
【余談】
今年は、太宰治の生誕110周年のよう。私が平成の前半でもっとも読みこんだ日本の小説家は太宰かもしれません。ここしばらくあまり読んでいなかったので、また読みかえそう。ほんで、おそらく、令和時代になっても一般的に太宰は読み継がれることと思われます。ということは、従来通り(?)多くの毀誉褒貶にこれからもさらされるということになるのでしょうか。
(成城比丘太郎)