- 読書についての雑文
- 『本の虫の本』について
- 年末年始や初夢について
- おススメ度:特になし
【はじめに】
ちょっと遅いですが、2019年明けました。今年の目標などはないですが、今年もそれなりに本を読んでいきたいと思います。私の年始にあたっての言葉は特にないですが、ちょっとシオランから以下の引用をして。それをあいさつにかえてみたいと思います。
「本を読みすぎた……私の思考は読書に食い尽くされた。本を読んでいるとき、私は自分が何かを<している>と思い、<世間>に弁明し、自分にも仕事があり、暇人であるという恥から逃げているような気がする……無益の、役立たずの人間。~金井裕・訳」
上のシオランのコトバを文字通りに読むと、「役立たずの」私にとって、これほどの肺腑をえぐるおそろしい文言はない(もちろん、シオランのいう「本」がそんじょそこらへんの「本」ではないのでしょうが)。しかしである。次のように読み換えてみたらどうでしょう。
《本を全く読まなかった。私の思考は読書以外の実生活によって培われた。本を読んでいなくとも、私は自分が何の支障なく生きていると思い、もちろん形而下的には何はばかることなく、自分の人生にはやるべき仕事が充満し、読書という暇つぶしにしか見えない無駄なことが私を襲うこともなく、人生を終えるその時までこの世にあって私は有益であるような、そんな揺籃の人間》
「本」を読むことだけが、何らかのよすがとなっている人間にとって、「本」は最後の砦、精神における「偉大な患者」の証、をあらわすとするならば、あきらかに読書とは私にとって有益であるとも無益であるともいえない。本を読めば読むほどに、これは何の役にも立っていないなぁと思い、そうしてまた別の本を手に取るのです。しかし、いくら読んでも、最後に読むべき本(あるいはマラルメのいう「一冊の書物」)にはたどりつけない。そうしいていつの日か、何にも気付くことなく、瞑目したまま、本を手に取って崖の淵に立っていることでしょう。
【初夢に出てくる本】
さて、あいさつが変に長くなりました。年末年始には、海外へとレッツ&ゴーするアクティブな人もいるだろうし、寝正月な人もいるでしょう。私は、海外へは行かないので(というか能力的に不可なので)、だいたいは人込みを避けて読書を楽しみます。今年も年末年始にかけて、十冊くらいの本を並べては、(文字通りの意味で)鶯の谷渡りのように数十ページずつ次から次へと読んでいきました。そんな中で読んだ一冊が、『本の虫の本』(創元社)です。
ところで、年末年始恒例の、十数冊つまみ読みをしていると、それらの内容が混線することがあります。とくに長編小説だと顕著です。何冊もの長編を並行で読んでいると(普段はしない)、登場人物の特徴や状況などが一瞬こんがらがってくることがあって、それが非常におもしろい。今読書を再開したこのAという小説に出てくるこいつは、いったい誰でどこにいて何をしているのか分からなくなり、(またはBやCといった本の内容と混線して)別の本を読んでいるという感覚に陥ったり、その本とは全く別の光景を思い浮かべたりするのです。まあもちろん、読んでいたらすぐに元に戻るんですがね。今年の年始はそれほど長編を並行して読まなかったので、そんなことは少ししかなかったですが。
『本の虫の本』には、本が出てくる夢のことが書かれていました。私の夢にもよく本や書店や古本屋が出てきます。今年の初夢にも、もちろん本が出てきました。何の本だったかは覚えていませんが。私がいつも見る本の夢は、古本屋で探していた古本を安い値段で見つけた時のものです。夢のなかで、探していた本を手に取ったときにはかなり興奮して、あれもこれもと、次々と古本を手に重ねていくのです。では、なぜこうして古本の夢を見るかというと、それは簡単明瞭。古本を好きなだけ買うだけの資力が現実には全くないからです。現在では、ある程度の資金があればネットなどで古本を購入できます。しかし、それにも限界があります。なので、せめて夢の中だけでも、ということです。ということは、私がある程度古本を好きに買うことができるだけの金持ちになれば、おそらく古本屋の夢を見ることはなくなるでしょうね。まあ、本の夢は見るでしょうが。
(成城比丘太郎)