- コラム(013)
- 小説家の書評本を読む
- だいたいにおいて健全な内容
- おススメ度:★★★☆☆
【はじめに書評本を読むとは】
この5月は、暑さもあったのですが、それ以外にもけっこうしんどいことがあったので、ムズイ本はそれほど読まずに、図書館から借りてきた最近出版された書評本を読んでいた。偶然にも、本職を小説家とする人物が書いた書評本ばかりになりました。その中で、感想を書く気になる分だけ書きます。
ところで、書評本を読むとは何なんでしょうか。そういうのをたまに読んだりしますが、わざわざ書籍になったものを読むことには何の意味があるのか、未だにわかりません。もちろん、その内容が(学問的なものなども含めて)有益なものであったり示唆に富んでいたりすればいいのです。つまり、まあ面白ければいいのですが、たまにハズレなものもあるので、そういう時にはこれを出版する意味はあるのかなと思ったりしないこともない。
最近は、「千夜千冊」(松岡正剛・著)を(再)編集して出版していて、そこではテーマ別にまとめられているので、まだ何かを伝達しようとする意図はあります。そういうのとは違って、単純に書き散らした短文を集めて一冊の本にしたものなどは、正直おもしろいとはいえないものがあります。
【最近読んだ書評本】
小説家が書いた書評本の中で、あまり面白くないとおもったのは、『不良老人の文学論』(筒井康隆、新潮社)です。どこらへんが「不良」なのかわかりません。最近の著者の作品を読んでないので「不良」をどういう意味で使っているのか分りませんということです。この本には、最近の著者の書き散らした短文が収められています(そもそもこれが、書評本なのかどうかわかりません)。内容としては、物故者との思い出から、(身内の)作家への好意的な言及に加え、文学賞の選評など、まあありていに言うと、健全な内容です。「安楽死」についても書かれてるけど、それは「不良」老人?にしてはこれといって見るべきもののない的外れなものです。著者の姿を、たまに観る番組で見かけるだけですが、本当に単なる好好爺になったのだなぁと思うばかり。本書は飛ばし読みしたので、読み間違ってるところはあるかもしれないですが。
『小説という毒を浴びる』(桜庭一樹、集英社)は、「桜庭一樹書評集」です。タイトルに「毒」とありますが、これは著者が「毒」を吐くのではなく、自身が読んできた小説がどれだけ「毒」であったか、つまりそれは、(主にミステリ)小説からどれだけ影響をうけたのか、ということです。一応言っときますと、著者が自身の出身地である山陰地方への不満?を語るところは「毒」めいたところはあります。この本もあちこちの媒体に書き散らしたものを集めたものですが、本書はまだ書評本の体をとっています。内容としては、主にミステリを含む(海外)小説にいかに著者が影響を受けたかということです。それを同業者との対談を通しても語りあったりしています。筒井本とともに、これもまた身内同士での褒めあいの部分もありますが、「面白そうな本だなぁ」と思う紹介本も書かれているので、以前読んだ同著者の書評本と同じでそれなりにおもしろかった。
筒井康隆のものが、それほど書評していないのに比べて、きちんと書評(というか批評)しようとしていたのが、『二度読んだ本を三度読む』(柳広司、岩波新書)です。本書は、海外作品を含む本を取り上げて、いろいろと批評しています。新書ではありますが、けっこうきちんと書かれていたので、ここら辺はちゃんとしたテーマを持って書かれているものと、そうではないものとの違いでしょう。まあ、書き散らしたものをまとめるだけでも大変でしょうが。本書の内容はタイトルからうかがえるように、著者がこれまで若い時に二度読んだ本を、三度目に読んでどう読めるか書かれたものです。著者の小説はおそらく読んだことはないです。本書に書かれたものは、私の書く読書感想よりおもしろかったので、それなりに有益なところはありました。私も同じ本を三度(翻訳したものがちがっても)読んだことはありますが、そのたびに違う感想に捉われることはあります。このことは桜庭一樹の本にも書かれていました。著者は本書で、存命者の本は取り上げないという、変な言い訳を書いています。その内容から察するに、現役作家のものを取り上げると何らかの差し障りが業界的にあるのかも知れませんが、そんなことは読んだら分かるので、蛇足でしかない。というか、海外作品の場合、翻訳者は存命かもしれんけど、それは頭に入ってないのだろうか。
【まとめ】
小説家の書く書評本というのは、概して健全なものになりやすい。とくに筒井本に顕著なように、書く対象となる本や人物に、自らにとって何らかの関わりがある場合そうなってしまう傾向が見られます(あたりまえですが)。なんにせよ、これらを読んで分かったのは、小説家で食ってる?人は、小学生時代から文学に親しんでいるということです。さらにいうと、文学だけでなくいろんな本を読んでいるということです。桜庭一樹と対談したある小説家だけは「本を読むのは遅かった」と語っていたけど、だいたいが早熟傾向(小説家になるには、多くの本を読めそして模倣しろってことですね)。私からしたら、なんであんなわけのわからん文学を小学生で面白く読めたのか不思議だ。私は高校生くらいになってようやく文学の面白さを知った(もちろん作家だけでなく、編集者や評論家も早くに読んでいるだろう)。それを考えると、読書感想文を(まだ文学に触れていない)小学生に無理矢理押しつけるのは百害しかないかもしれんなぁ。
桜庭一樹が書くように、小説家は基本的に「嘘」を書いてなんぼなのですが、これらの本には作家の本音が現れています。また、小説を読むとは「誤読」をおそれないということもわかります。そういう意味でいうと、ここに書いてきたのも「誤読」かもしれまへんが、それをおそれてはいけません。これから私も、「誤読」を続けていこうと思いました。
(成城比丘太郎)