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★★★★☆

この世界の片隅に(片淵須直〔監督〕/アニメーション映画)

投稿日:2018年3月31日 更新日:

  • 日常というものを、戦前戦後という地平で連続的に描く
  • 偶有性を帯びて見える「すず」さん
  • 声優から楽しむ「この世界の片隅に」
  • おススメ度:★★★★☆

ようやく観ました、『この世界の片隅に』を。私はミーハーなので、とくにアニメーションの映画に関して、ヒットしたものは注目しているので、ここ最近のヒット作は洩れなく観ようと思ってます。しかし、ミーハーである反面ひねくれ者なので、ヒットし過ぎると観たくなくなるという性分も持ち合わせています。最近だと『アナ雪』は早送りで飛ばし見してきちんと見たのは最後の30分くらいでした。別に観なくてもよかったのですが、話の種にと見た次第です。『君の名は。』は、新海誠監督であるし、モンスター級のヒットであり、私のひねくれ度の遥か彼方の次元でのことでもあるので、観ることに関してなんの抵抗もなかった。これで、2016年三大ヒットアニメ映画(邦画)のうち、残すは『聲の形』のみとなりました。これは原作が(私にとって)イマイチピンとこなかったので観る気はない、と言いたいのですが、京アニ制作なのでそのうち観るでしょう。

前置きが長くなりましたが、『この世界の片隅に』は、原作を読んでいないし、映画館へは諸般の都合でなかなか赴けないという事情があり、まあ、普通ならスルーするところなんですが、ようやくテレビ放送があるので観てみたのです(動画配信サービスなどに加入してないので)。監督があの『BLACK-LAGOON』の片淵須直なので、まあ、どんなものかと楽しみにテレビ放送を待っていたのもありますし(機銃掃射のシーンなどは、この前観たドキュメンタリー番組と同じかんじだったのは、さすが〔?〕といったところでしょうか)。観る前は、どうせ『火垂の墓』みたいなものだろう、とあなどっていた(?)のですが、『火垂の墓』ではこれっぽちも感動しなかった私も、さすがに少し感動しました。まあ、『火垂の墓』は、野坂昭如の本性を知ってからは、感動とは別の意味で観ていてかなしくなるのですが。

さて、内容についてですが、あまりにも有名なので書く必要もないでしょう。きうら氏が以前(2017年2月14日の記事)にも書かれているので、詳しいあらすじはそちらをご覧ください。一応内容を簡単にいうと、たまたま昭和初期にたまたま広島で生まれた、たまたま「すず」さんという名前を持った女性が、夫になる周作とたまたま出会い、その周作にみそめられて、たまたま呉が実家であった周作のもとへ嫁ぎ、たまたま家族になったものたちや近所の者などとの生活を送るのです。まあ、彼女の目線から世界が描かれていくというわけです。目線でいうと、すずさんの目線が最初は下を向いていることが多いように見えるのですが、のちに空を見上げることが多いように感じました。
それでは、以下に、勘違いを含む大雑把な感想を。

【大雑把な感想】
さて、「たまたま」と何度も書いたように、すずさんと彼女の日常の特性〔のひとつ〕としての様相は、別にそうでなくてもよかったのに、たまたまこの時代・この場所に生まれたという偶有性を帯びたものとして広がっているように、私には見えます。それはひとつには、様々な生活の細部や、空襲や、知り合いの死や、原爆投下や、終戦(敗戦)といった出来事が、その強度の違いはあれ、すずさんの日常という地平の上で連続的に描かれているように思われるからです。さらにいうと、最初は主体性を欠くように見える彼女の、空白的な意志のありようがそれを強調しているようにも思えます。もちろん、原爆投下などといったものは重要な出来事なのでしょうが、呉にいたすずさんにとって、共時的には、何も知るよしもなかったことです。それこそがすずさんの特権化をふせぎ、反面すずさんの日常性〔とさらには偶有性〕を際立たせています。つまり、もし、すずさんがあの日広島に帰郷していたら被爆者になっていたわけであり、そうすると、物語はすずさんに被爆者という特権性を与えてしまうように思われるのです。そうすると普通の日常〔という地平〕を描いたこの作品からそれを剥落させてしまい、「この世界の片隅に見つけてくれてありがとう」の意味も変容せざるを得ませんし、もしくは、「この世界の片隅に」あるはずの日常性自体が被爆という悲劇へと収斂していってしまうのです。すずさんの代わりに亡くなった晴美や、広島にいた実家の家族(や他の人々)たちが、これまた「たまたま」という相のもとで、すずさんの日常性の維持のために物語の犠牲になったともいえます。このことは、逆にいうと、広島の戦時下を描いたものなのに「戦争もの」という意味付けをなるべく排除しようという力学がこの映画に作用していることにもつながるように思えます。とはいえ、すずさん自身も右腕を失い、心に傷を負うのですが、それらはすずさんに生きる意志の表出を与え、また最後に戦災(原爆)孤児を拾うという新たな生の灯火としての指標にもなっています。最後の方で「何も知らないまま死にたかった」というようなことを叫ぶすずさんですが、それは物語的には許されないことだったことが、私に、すずさんの生命力を照射するのです。そうです、すずさんから感じるのは、生きることの表象なのです。それが私のように生の精彩を欠く人間にはまぶしすぎて、個人的には観ていてしんどくて、素直に感動できないところですが(残念)。

さらにいうと、この時代・この場所に生きたことがすべて「たまたま」という相にあることが、鑑賞者に自らの境遇の偶有性を(再)認識させます。観る者もまた、たまたま「この世界の片隅に」生きているということを。すずさんが周作にいうこのセリフはまた、観る側わたしたちに語りかけているようでもあります。それは、生きる意志に溢れた者にとっては、非常に感動できるもののように思えます(だから、それとは正反対の生を生きる私にとっては、この映画に単純には感動できないものがあるのです)。それとも、大勢の人間がいて大騒ぎをしている方へではなく、その人たちから離れてひとりたたずんでいる、そういう人に目を向けることができる人だけが知ることのできる、そんな「小さな倫理学」(山内志朗)に通じるものが、この感動の底にはあるかもしれません。

ここで、奇妙に映るのが、すずさんの危機に現れる周作でしょう。すずさんが偶有性を帯びれば帯びるように見えるほど、周作の必然性を帯びて見える行動に躓いてしまうのです。すずさんを積極的に求めたのもそうですし、すずさんが空襲警報のなか鷺を追って外へ飛び出したとき図ったように現れたのもそうです(ヒーローかよ)。この、すずさんの姿を見つける〔ように描かれた〕周作が、すずさんの同郷人である水原哲に彼女を差し出そうとする場面があります。自らの意思で、自分の家にすずさんを連れてきたはずなのに、なぜここで水原に譲り渡そうとするのか。最初観たときには、当時はこういう慣習があったのかと勘繰ったのですが、それならもうちょっと分かりやすく描くだろうと、少し混乱しました。観終わった後、ちょっと調べたところでは、なにやら周作とすずさんには、あるわだかまりがあるようで、それが映画では詳しく描かれていないためだったようです。もちろん、周作にすずさんへの嫉妬もあったというのは分かったのですが。監督がいずれ長尺版をつくりたいと語っていたのも、このことでしょうね。

ところで、すずさんが追っていった鷺とはなんでしょうか。最初に観た時は、ああこれは水原が死んで、すずさんを死地へとおもむかせようとしているのかなとも思いました(勘違い)。戦後まで呉にあった「青葉」に乗っていた水原が、終盤にその姿をわざわざ現す(あるいはすずさんの視野に入る)のですから、おそらく彼は生還していたのでしょう。というか、あそこで死者となった水原の幻想をすずさんに見せる意味はないと思いますが。まあ、あれは過去との訣別といった大仰な解釈をしてもいいのですが、すずさんに「まとも」でいてくれと言って出て行った水原の戦後という「まとも」な世界への帰還を、すずさんが言祝いで見守っているようにも思いました。戦前・戦後を通して、確かにすずさんの信じた日常は変わったのかもしれませんが、それでも彼女が拠って立つ日常そのものは変わらずに続いていく、そのことを後半部分の連続的な場面があらわしているようにも思えます。つまり、日常の中身は変わっても、日常そのものは続いていくということです。そして、日常そのものが際立つことによって、すずさんの偶有性もまたそれに付随するような感じがするのです。

【声優について】
さて、ここで声優にも触れてみたいと思います。私は、ある程度声優についての知識を有していて、そのせいか、かえって声優というものに対するこだわりがほとんどありません。世間では主人公すずを女優の「のん(能年玲奈・改め)」が演じたことで話題になったようですが、私くらいになると(?)、「のん」だろうが、「日高のり子(ノン子さん)」だろうが、誰が演じようが気にせず楽しめるので、全くどうでもいい。と言いたいところですが、さすがにヒドイ時には「はあ」とは思う。例えば、『君の名は。』です。『この世界の片隅に』は『君の名は。』より観客動員数では劣るが、主人公の演技に関してはそれよりもイイ。というか、『君の名は。』の主人公(神木くん)の声優としての演技・発声はイマイチすぎた。役者としてのキャリアは「のん」より上のはずなのになぁ(ハク様や、天沢聖司を見習ってほしい)。一方、すずさん(のん)は良かった。原作読者じゃないが、思ったよりも良くて、イラストを見るともうこの声でしか再生できなさそう。この感覚はどこかで覚えがあると思ったら、『ゼーガペイン』の時の花澤香菜だ。花澤香菜もこの時の演技は達者でなかったが、なんかこれしかないという感じはあった。それにどちらの作品も危機に瀕したなかでの日常性を担保してくれる声質だったように思います。『ゼーガペイン』の方が絶望感(虚無感)は半端ないが。

そして、すずさんを支える二人の男性(声優)も注目でしょう。まず周作役の細谷佳正は、広島出身のようで、以前にも『君のいる町』で広島(三次だったか)の純朴な高校生を演じていたし、その他にも『坂道のアポロン』(長崎)、『ちはやふる』(福井)と、方言を扱うキャラが印象に残っている。『この世界の片隅に』での演技は抑え気味で、『刀物語』の時のような平板なトーンを保ちつつ、落ち着いた感じですずさんを支え、また、たまに激したときのそれとの落差もよかった。一方、水原哲役の小野大輔に関しては、なんとなく、急に土佐弁で喋りだしそうに感じて個人的に落ち着かなかった。まあ、映画で描かれた恋愛(?)については、この三人の関係という、どこかの少女漫画か乙女ゲーのような構図のきらいもありますが、これは、おそらく声優のせいでしょうか(一部のファンにはたまらないのかなぁ)。
その他、広島出身の声優が何人かエンドロールにてクレジットされていた(大亀あすかとか田中真奈美とか)ようですが、もし、広島(呉)出身の声優である「松来未祐(まつらいさん)」が存命であれば、おそらくここに出演していたかもしれないと思うと、なんだか映画の内容とはまったく関係ない文脈でしんみりしてしまった。

以上、今回は映画の大雑把な感想でした。素直に感動できないと書きましたが、それは私の個人的な問題のせいであり、作品自体は非常にすぐれたものでした。さすがMAPPA制作ですね。いずれ、原作も読んでみて、ここには書かなかったその他にもある疑問点を解決してみたい。そうしたら、ここに書いたことが盛大な勘違いであることも判明しそうですが。

(成城比丘太郎)


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