- 有名な「ピーター・パン」の物語とは別の話。
- 公園での妖精や少女とのうつくしい交流。
- 箱庭の世界で繰り広げられる不思議な物語。
- おススメ度:★★★☆☆
最初に書いたように、本書は日本でも一般によく知られている『ピーター・パン』の物語(劇)とは違います。有名な方のものは演劇で、『ピーター・パンあるいは大人になりたがらない少年』(作者は同じ)というタイトルです。これに出てくる「フック船長」や「ネヴァーランドのティンカーベル」といった聞きなじみのある人物は、本書には登場しません。今回取り上げる物語の舞台は、ほとんどがケンジントン公園中心なので、世界のひろがりというものはありません。
そもそもこの話は、「解説」によると、バリーが発表した『白い小鳥』(未読)という小説の話中話から、さらに抜粋して固有名詞などを変更して書いたもののようです。要は、ピーター・パンが出てくる部分だけを抜き出したもので、そのせいか、よく知っている『ピーター・パン』劇よりも、ピーター・パンだけに焦点を合わせていて、その分密度が濃いように思います。
冒頭は公園の説明からはじまります。そこにはどんな池や通りや山があるのか、またそれらにまつわる挿話が語られます。そのあとに、ピーター・パンの話になります。「解説」を読んでもらえば分りますが、「ピーター・パン」のパンとは、ギリシャ神話の「Pan」という神のことです。だから「ピーター・パン」とは、「ピーターというパン」という意味です。「パン」については、本解説を読むか、「Wikiのパーンの項目」でどうぞ。
しかし、ここでのピーターは神ではなく、「赤ん坊」の姿で登場します。赤ん坊のピーターは、人間になる前は鳥だった、その「鳥だったころのことが忘れられずに」、生後七日で母親のもとを離れ、公園へとやってきたのです。そこで、「ソロモン・コー老人」に言われたのは、「どっちつかず」という鳥でも人でもないという宣告でした。この「どっちつかず」というのは、曖昧だということですが、彼はあまりそれを気にしている様子はなく、鳥たちが住まう「鳥の島」から、公園へと向かおうとします。
公園に住まうのは、妖精たちです。この妖精についてはっきりと分かっているのは、子どもたちがいるところには、どこにでもいるということです。この妖精というのが、ピーターよりも存在感があって、この作品の主役なんじゃないかと思うときがあります。妖精たちは、人と同じようなことをしているようで、実は何もしていないとか、いたずら好きであるようです。人間の赤ん坊は小さい時に妖精語をしゃべっているということもあってか、なんとなく妖精は赤ん坊と近しい存在なのかとも思ってしまいます。
ピーターはその妖精たちの中で、「妖精の楽団」として活躍しているのですが、ある日自分の母親のもとに帰る機会を得ます。ピーターの母への思慕は、かなりかなしくて、胸がしめつけられそうです。この時の話と、「解説」の作者の実体験とをあわせて読むと、さらに切ないものがあります。この後に出てくる少女「メイミー」と妖精たちやピーターとの触れ合いは、一編の抒情詩のようで美しいです。
この小説は、(児童向けの)童話やファンタジーといってもいいですが、ピーターの経験するかなしい別れのためか、大人の胸にもしみいるものになっています。特に「解説」で書かれた、作者自身が経験した自らの母とのかなしい出来事を読むと、それがより一層増してきます。
(成城比丘太郎)