- 乱歩について言及されているのが、ほとんど。
- 横溝(作品)にも最後の方で触れています。
- 乱歩と横溝が直面した、戦争に対する探偵小説の行方。
- おススメ度:★★★☆☆
江戸川乱歩と横溝正史という、戦前・戦後を通して日本探偵小説界の黎明期に「燦然と輝く巨星」。本書は、その二人の出自から作風の違いなどを通時的に解き明かそうとしたものです。ところで、乱歩は近年岩波文庫に入りました。これは、乱歩作品が古典として認められた、というか岩波文庫に入ってもおかしくなくなったのでしょうか。別に岩波が権威的だとは思いませんが。もし乱歩が《お札》にでもなったら、私はおそらくぶったまげるでしょうね。
探偵小説が生まれたのには時代的な要請がありました。大正時代、東京という大都市では人々が「接近遭遇」する反面、個人が分断化されることからうまれた退屈な日常から、他人を覗き見しようとする趣味傾向がでてきました。また(大逆事件後の)不穏な情勢から、都会が探偵ゲームの現場であることも認識されるようになったのです。
乱歩は谷崎潤一郎(や宇野浩二)の影響を受けつつも、感覚的には芥川の短編を受け継いでいるというのは興味深かったです。デビューしてまもなく推理短編のアイデアが枯渇した乱歩は、放浪(休筆)を経験することになります。物語を書く自分自身への不安を抱く乱歩は、「過渡期」の作品『鏡地獄』に、読者からの奇抜さを求める声を反映させています。「第一章」からは、本格的な探偵小説作家としての限界に苦しむ乱歩の意外な姿が浮かびあがります。
「第二章」では、乱歩作品の構造分析がなされています。その中では『押絵と旅する男』分析がおもしろいです。作者(第0次元)という現実を前景として、物語内に三次元の「物語行為」があるといいます。それらが入れ子構造をなし、それら語りの次元が隔絶せずに、越境してしまう効果が(物語る内部に)構造的にあるようです。結果的に「(物語内部の)語り手の私」の次元(第一次元)までが、物語内(第三次元)に呑み込まれるのではという不安をもたらしているようです。おそらく、乱歩作品の異様さが読者に迫ってくるのは、(物語内/外という)構造がふとした瞬間に融解して、読者であるこちら側にも越境してくるのではという妄想が働くからでしょうか、ということを考えました。
「第三章・第四章」はそれぞれ、戦時中に探偵小説がどのような意味を持ったのかが、乱歩と正史、その他の探偵小説を書いた作家を通して浮かびあがります。また、(検閲・社会統制を含めた)国策に対して、この二人がそれぞれどういった対応をとったのかも書かれていて、なかなか興味深かったですね。まあ、複雑なことなので簡単にまとめられませんが、乱歩は一国民として国防の統制に服しつつ、日常の戦争を<虚無>をもって生きたようです。それは、乱歩が以前から持っていた気質であり、また「通俗的な怪奇冒険譚」の多作からもたらされたものでもあったようです。
本書のほとんどが乱歩作品についての解説で、「第五章」でようやく横溝作品のもつ問題が取りあげられます。横溝が焦点化したのは、(乱歩が重視した)個人のもつ「悪念」(=悪事をはたらく動機)ではなく、その悪念を希釈する習俗の集団性だったのです。だから横溝作品の場は家や村や島などに向かうことになります(執筆の直接の動機は、疎開先の岡山での経験があったようですが)。
「習俗に根ざす集団の制裁や報復の行為は、規範的な規制の作用でありながら、同時に、変質者以上に奇態な側面をもつことがあり、多重殺人の荒唐無稽さと十分釣り合う可能性を持っている」(p297)
横溝作品に導入された「(家・村・島といった)空間には習俗の論理」が適応され、そこでは、住人は死者の遺志や声に規定されていて、殺人事件の一つの動機になっているようです。
著者の内田隆三の専攻は「社会理論、現代社会論」です。文章自体は、私にとって少し晦渋にすぎるところもありました。そういう意味ではあまりおススメしかねますが、近代日本の探偵小説作家が問題にしたものなど、読みどころは色々あります。特に(近代に議論された)本格的な探偵小説とは何なのかという問題は、推理物をよく知らない私には興味深いものでした。最後に余談ですが、この本でも一個所「真逆」という表現が出てきました。著者はぎりぎり団塊世代にふくまれると思いますが、とうとうこの年代まで(書物で)使いだしたかという感じです。
(成城比丘太郎)
乱歩と正史 人はなぜ死の夢を見るのか (講談社選書メチエ) [ 内田 隆三 ]
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