- 黒人少女コーラが奴隷のくびきから「逃げる」
- 逃亡奴隷を追う奴隷狩り人の執拗さと凶悪さ
- 19世紀アメリカ南部にはびこる奴隷制を、虚実をまじえて描く
- おススメ度:★★★☆☆
【あらすじ】
ジョージアのとある農園に奴隷として住むコーラは、ある時、シーザーという奴隷青年から逃亡を持ちかけられます。二人は、アメリカ南部で奴隷逃亡を手助けする「地下鉄道」という組織を通じて、必死で北部へと逃れることになるのです。コーラの母も、コーラが小さい時に彼女を捨てて農園から逃亡していました。コーラの逃亡は行く先で母の痕跡を探そうとするものにもなっているようです。そんな逃亡奴隷のコーラを追跡するのが、奴隷狩り人のリッジウェイです。はたして、コーラの向かう先に待っているものとは何でしょうか。
印象としては、別の事実としてのアメリカを活写したかんじです。
【簡単な感想】
奴隷逃亡を手助けする、奴隷廃止論者たちが運営する「地下鉄道」は実際にあったようです。これは、本来なら「地下鉄道」という「暗号名(コードネーム)」を持った組織のようなのですが、作者は、本当に鉄道(レール網)としてこれを地下に走らせています。このことによって、この組織がアメリカ全土にわたっているかのような印象を視覚化しているように思えます。また、コーラが地下の暗い鉄道を行く場面などは、未だ昏いこの国の現実を表しているようです。
本書で頻出するのが、黒人奴隷に対する差別を通り越した、残虐な行為の数々です。さらに、ときに家畜扱い(またはモノ扱い)される奴隷だけではなく、その奴隷逃亡に手を貸した者にも、狂気のような暴力が向けられます。「暴力と死の種」がまかれたアメリカを、コーラは様々な州を移動しながら見ていくことになるのです。まさにこのコーラは見る者のようでもあります。逃亡のきっかけとなったコーラのとっさの行動からはじまり、その農園しか知らなかった彼女が、関わった人々を時に死地へ追いやりながらこの国を見ていくのです。とくに、ある家の屋根裏部屋で見ることしかできなかったコーラがそうですし、「アメリカの真の顔」が列車から見えると、ある人物から言われたのもそうです。
本書後半で、コーラがたどり着いたインディアナの農園では、彼女は黒人(の歴史)に対する知見を得ようとします。「年鑑」という客観的な記録に興味を持つコーラの姿は、本書がどこか淡々とした記録のように読めるという印象と重なるような気がしました。
さて、本書を読む間、ずっとその痕跡すら見せないコーラの母(=メイベル)がどこへ行ったのか考えていました。読むうちに、もしかして、メイベルはどこへも行っていないのではないかということへ思い至り、そうすると結果は一つではないだろうかというところに落着しました。ネタバレになるので書きませんが、最後に書かれたメイベル逃亡の顛末は、なんだか、現代になっても、いまだアメリカには人種差別的混迷さが見られることの暗示のようにも思えました。
また、最後にコーラが新たに向かうことになる地は、もうひとつの「北部」でしょう。そうすると、コーラが本書内で南から北へと向かっていた行程は、当時のアメリカ東部の話でしかないことに改めて(?)気付きました(アメリカの歴史や地理が身についているわけではないので)。そう考えると、コーラがラストにおいて「北部」へ向かうことになる光景は風通しの良いイメージになりました。とはいえそれはまた別の迫害の歴史につながるのでしょうが。
【さいごに】
本書は2016年のアメリカで「もっとも熱狂的に読まれた」ようで、さらに四十の言語に翻訳されている途中だという。日本でこれを読むことの意味とは何でしょうか。もちろん、日本ではアメリカほどの深刻な黒人差別はないようです。しかし、ここに書かれた歴史の一片を「対岸のなんとか」として読み過ごすことはできないでしょう。数年前のとあるヴァラエティ番組で、とあるお笑いタレントが、とあるアフリカ出身のタレントのことを「ゴリラ」と言って、出演者の日本人が大笑いする様子が(ゴールデンタイムに)流されていました。おそらく視聴者もなんとも思わなかった人が多いでしょう。それを観て私は眉をひそめるとともに、何だか日本人の無頓着さにおそろしくもなった覚えがあります。ちなみにその番組の司会者が出るものを、それ以来あまり観ないようになりました。お前はいったい何を言いたいんだ、と言われるかもしれませんが、私が言いたいのは差別意識のない差別もおそろしいと言いたいだけですので。もしくは、自らの内に抑圧した、(それを放出できない対象への)差別意識の行き先が、別のものへと転嫁されて外へと出てきたのでしょうか(考えすぎか)。
(成城比丘太郎)