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文字渦(円城塔/新潮社)~読書メモ(019)

投稿日:2018年10月5日 更新日:

  • 読書メモ(19)
  • 又吉先生の小説について
  • 文字の歴史を実験小説的に綴る
  • おススメ度:特になし

【又吉直樹先生の連載小説が、ヤバイ件について】

『毎日新聞』に好評連載中(?)の、又吉直樹の小説『人間』が、私の中で「ヤバイ」と話題になっています。この小説は、まだ始まったばかりなので、内容的な評価はできません。今のところのあらすじとしては、ある中年男性が、美術生時代に芸術家志望の若者たちと「あーだ、こーだ」していたことを回想するだけの話。一応、そのモラトリアム的な時代に、いろんな人との会話とその人たちへの観察が書かれているだけで、小説かどうかもよく分かりません。また、当作品に影響を与えていると思われる太宰治の『人間失格』は中編小説であって、この『人間』が中編なのか長編なのかを目指しているのかどうかは分かりません。

では、なにがヤバイのか。それは、この小説の着地点が全く見えないところです。私は『火花(過去記事・きうら著)』だけちょろっと読んだだけです。その『火花』は、文芸誌編集が頑張ったのできちんとした小説になったと仄聞しました。しかし、この『人間』に関しては、そうしたチェックがなされているのかどうかが、全く見えません。そこがヤバいと思うところなのです。この小説は完成形が見えているのか?誰かがきちんとしたプロットなりを見ているのか?それが分からないために、このまま回想と、それに続くどうでもいい話をダラダラと読まされるだけではないかと危惧しているのです。

もしかしたら、このままこの『人間』は、何が何やら分からないまま終わるのではないか。まあ、それならそれで本格的「純文学」作家又吉直樹としての本領発揮といったところでいいのです。そもそも、新聞連載って難しいのではないの?この『人間』を読んでいて、連載が一日あいだをおくと、いえ翌日になったら、前回がそのような話であったか忘れてしまうことがあるのです。これもヤバイ。どう考えても、又吉先生にはまだ新聞連載は早かったのはないか、周りが彼をサポートすることができていないではないのかと、連載開始から一カ月ほど経って思うのです。あー、ヤバイ。

その昔、奥泉光がA紙に小説を連載していた際に、私はそれを読みたいので、知りあいに頼んで一週間分取りためてもらったことがありました。その奥泉の小説は、最初は面白かったのですが、段々わけがわからなくなったので途中で読むのをやめ、単行本になるのを待ちました。で、後に単行本を読んだらですね、これがまあ、本当にクソつまらん作品で、私の中ではいまでも奥泉光史上燦然と輝く、かなしいほどにつまらん作品だったのです。

おそらく毎日新聞出版は、平野啓一郎のマチネのなんたらいう小説の二番煎じ、いや、『火花』の残り火を狙っているのでしょう。まあ、この『人間』が単行本になったらそこそこ売れるとは思います。マチネのなんたらいうのも毎日新聞連載小説であり、それはそこそこ読まれたらしい。しかし、私からしたら、そのマチネのなんたらは又吉先生の小説よりも読みやすかったものの、読んでいて次第に眠くなってくる割合が高くなってきたので、読むのを途中で止めてしまった。おそろしいほどに中身のなかったそのマチネのなんたらより、まだ又吉直樹のほうが、引っかかりが多いものの目が離せないし、これから最後まで読んでやろうという気にさせる、あやうい面白さがあるのです(はじめてのおつかいを見るように)。

しかしですね、やはり連載小説でなくてもよかったのではないかとも思うのです。まずは、読書エッセイ的なものから連載をはじめてもよかったのではと思うのです。以前、又吉直樹のエッセイ的なものを読みましたが、そちらの方が読みやすいし分かりやすいしこの小説よりもおもしろかった。又吉本人のことを書いていたからでしょう。でも、彼は小説が書きたかったのでしょう。それならいいんです。しかし、それなら同人誌的なものにでも書いとけや、とも思うのです。その辺りの事情は分かりませんけどね。まあ、いまのところ私が書くものより読めるものになっているので、期待しとりますよ。

ふとあることを思い出しました。先ほど平野のほうが読みやすいと書きましたが、以前読んだ平野のエッセイは本当に鼻水が出るのも気付かないくらいにクソつまらなかった。なんでこんなエッセイが出版されているのか、しかもこんなものを平然とした顔で書いているのかと思うと、泣けてくるくらいつまらなかった。一応それなりにキャリアのある作家が書くものとは思えないほどにどうしようもない代物でした。その時に私は、これじゃあ日本の文学が読まれないのもさもありなんと思った者です。まあ、平野の小説はそれほど読んでないですが、50年後には又吉先生の著作も含めて、おそらく何も残ってないでしょうしね。まだ、又吉直樹には、少しの可能性は感じますが(錯覚でなければいいが)。

何を書いていたのか分からなくなってきましたが、とにかく、又吉直樹には新聞紙上に読書エッセイ的私小説を書いてほしいとだけ言っておきます。ここで、私小説と「純文学」とが簡単に等号関係で結べるわけではないことを付記しておきます。

【まだ書き足りない(ルサンチマン的発露)】

本題に入ろうと思いましたが、まだ書き足りない部分が出てきました。それは、『毎日新聞』に毎月載せられている「文芸時評」に対してです。私はこれを律義に読んでいます。それなりに興味深いこともあるし、それなりに参考になることもあるし、ならないこともあります。しかし、先月分(9月)のものを読んで、私は唖然としてしまったのです。

そこでは、文芸評論家の田中和生が高村薫の講演内容に衝撃を受けた、と書かれています。高村薫の、「エンターテインメントに吸収されてもとのかたちを失った末の純文学の変容」という発言に、田中は「事態は深刻」という感じを受けたようです。まず、何を言っているんだということです。高村薫は以前から純文学的分野にも進出していましたが(読んだことない)《※1》、そもそも「純文学」に可能性などないやろと、私はその時には思っていたものです。高村は実作者だけに、いろんな可能性を模索したのでしょうが、評論家の田中が衝撃を受けたというのには、開いた口がふさがりはするのですが、呆れました。

《※1》そもそも、高村薫がなにをもって「純文学」としているのかも分かりません。もし、単純に私小説的なものを書くのが「純文学」だとしているのなら、なんともおめでたいとは思いますが、それはここでは触れません。

なんというか、本気で田中はこんなことを思っているのかと、最初は疑りましたがどうやら本気のようなのです。これはヤバイ。もうなんというか、何も書く気力もないくらいガクッとしましたが、以下に田中和生の書いた文言を一部載せます。

「本来『純文学』的な意味ですぐれた作品は、エンターテインメントとして読者を楽しませる力をもつかどうかに関係ないはずだが、すでに『純文学の変容』が起きているというのは、読者を楽しませられない作品はそこで存在しにくくなっているということだ。その事態には、売れるということを超えて『小説の主流』を説明できなくなっている批判の責任もあると思うが、実作者がそう感じているという危機感を共有しておきたい」

もうどこから突っ込んでいいか、その気力もわかないくらい脱力感しかない。まず、「純文学」ってなんやねん、そんなもんが今でも通用すると思っているのか。私なんかは、もう恥ずかしくて十年以上も「純文学」なんて言葉は、ギャグ以外で使ったことがない。というか、この言葉には草しか生えない。理系・文系といった分類のバカバカしさや(時に使うけど)、アニメ(キャラ)に対して「萌え」などを使う恥ずかしさよりも、恥ずかしい。「純文学」という言葉は厳選して使うべきでしょう。又吉先生の作品を純文学作品というみたいに。

「純文学」が、かりにエンターテインメントとはちがうものだとしても、その「純文学」はある程度の面白さを備えていなければならないはずではないのか。それができていないのはその作者の問題でもあるかもしれないし、受容者の問題でもあるかもしれない。おそらく実作者は、おもしろいものやすごい物を産みだそうと日々研さんしているとは思う。それができていないのはなぜかは、そりゃあんた、評論家の問題かもしれないが、ときに変異的に面白い(売れる)「純文学」が出てくることを考えると、だいたいがつまらないのではないか。そんなことは、私には20年前からなんとなく見当は付いていたぞい。というか、面白い小説の読み方を、まずは評者がするべきでっしゃろ。

ここまで私が言いたいのは、「純文学」の歴史とか、「主流文学」のこととかではなくて、どのようなレッテルを張ろうが、とにかくおもしろいもんを発掘してくださいよと評者方に問いかけているだけですので。

この点について、私には気づいたことがあります。それは次のような単純なことです。

『まず、この「文芸時評」自体が、クソ面白くない』

ということです。いえ、つまらなくはないのです。興味深いこともあるし、載せられた作品を読んでみて「騙された」と思ったこともいい思い出です。しかしやね、なんで、こんな、おもしろくない紹介の仕方をするんやろうと思うのです。一般誌的全国紙なんですから、もうちょっとおもしろい紹介したらどないやねん、と思うのです。まずは、自分の足下をしっかり見てからにしてはどうでしょうと思うのです。小学生が読んでも面白い(くらい)と思われるような紹介を考えてみなはれや。これならまだ、読書ブロガーの紹介の方がおもしろいで、ほんま(私は除く)。だからこそ、私は、又吉先生に読書エッセイ的なものを書いてもらったらと思うのです。そこからはじめてほしかったと思うだけです。
いやいや、それよりも、『毎日新聞』紙上で行われている、高橋源一郎の人生相談の方がおもしろいので、そちらを拡大したらと言っておきます。

【本題に入ります】

ようやく本題に入ります。ここまで辿り着いた読者の方は少なくなっているでしょうから、短めにやります。まず、私にとって、円城塔はやっかいな作家です。それはいい意味で、です。とくに円城文学は、読んでから一カ月もしないうちに、何が書かれていたか忘れてしまうのです。読んでいた時はおもしろいと思っても、そのおもしろさが何であったかを書いておかないと、その内容を忘れてしまうのです。

この『文字渦』に関しては、読んだことだけは忘れないでしょう。なんせ、タイトルにある通り、中島敦の「文字禍」になぞらえているからです。この『文字渦』は、文字の渦と書いて「もじか」と読むわけです。この、小説かどうか分からない創作は、いわば文字で書いた「文字」についての話なのです。文字が「宇宙の仕組み」としてどのように歴史に関係し、または文字という形の変遷によってどのように人間が何をなしたのかを、文字を使って表現した文字作品なのです。そこからは、文字の制度性からくる興味深いものが見えてきます。

歴史的にみて、文字の獲得と変容があり、さらにそこには何らかの角逐があることを表現したと思われるのが、「闘字」という短編です。これは遊びにおいて文字(部首)同士を戦わせるという趣向から発展し、色んな文字に話は及び、なんとなく文字の発明(開発)の歴史をたどるよう。

まあ、とにかく、形としての文字とはなんなのか(とくに日本では、漢字のことなど)ということに意識的であればある程、面白く読めるものになっています。ユーモアもありますし。形としての文字ということで、この『文字渦』のフォントが統一されているのはどうしてか、さらにはこの紙質なのはなぜなのかということをあわせて考えながら読むと、さらにおもしろいかもしれません。しかし、そう簡単には読めません。よく分からなかったこともありますし。とくに、後半三分の二に関しては、読むのにだらけてしまいました。

この作品はあれですよ。単に、文字を読んで楽しむものだけではなくて、書かれた文字を見ることによっても楽しめるものになっているのです。そういう意味でいうと、これは現代詩に近い部分も感じます。というか、途中から私はこれを現代詩として読みました(見ました)。いかに文字が物質的であるのか、ということがよく分かる短編集です。残念ながら、非常に実験的でややこしいので、ふつう(?)の面白さを求める人にはまったくおススメできませんが、こんな作品を出版するという余裕があるだけ、作者・出版社ともによく頑張ったというしかないです。《※2》

《※2》この出版社は今、自らが発行していた雑誌の内容について世間から集中砲火的な非難を浴びています。その内容や是非についてはここでの話題と関係ないので省きます。それよりも、10月1日の『毎日新聞』に寄稿された、ある意見が非常に気になりました。そこでは、とあるフリーライターが、「文芸書に親しむ多くの読者を裏切り、文芸書を出す新潮ブランドに傷がついた(記事の一部を要約)」というような記事を書いていました。はて?ここでいう「文芸書」とはなんだろうか?「多くの読者」とあるからには、おそらく「純文学」のことではないのだろう(「純文学」の潜在的な読者数の少なさからすると)。そもそも、新潮社の態度を弾劾しようというのに「文芸書」をもちだすのはどういう了見なのだろうか。「多くの読者」とわざわざ書くからには、「純文学」を読む読者は少ないとみているのだろうか?それこそ、生産性がない「純文学」など廃れてもいいという無意識下の見解が出てしまったのだろうか。まあ、私の被害妄想的なものだろうと思うが。

【『文字渦』を楽しく読むには】

先に、読むのにだらけたと書きましたが、私はこれをどう読んだら面白いだろうかと考えていて、以下のように考えた時に、最後までおもしろく読むことができました。

『これは、小説の自動生成プログラムにより人工知能によって生み出された作品ではないか。もしくは、円城塔という作家の脳をトレースして思考パターンを学習させ、さらに円城塔作品からその小説の特徴やいろんな文体や使用文字の頻度や構成要素を抽出して、人工知能的なものを搭載した分散型のコンピューターか何かが書きあげたものではないか』

とまあ、自分でも何を書いているのかよく分かりませんが、こう読むことで、さらに面白く読めました。なんせ、作中には、ニューラル・ネットワークによって過学習する「高度人工知能」的存在が出てくるわけですから。

【さいごに】

本題の、円城塔作品については短くなりましたが、とにかく、文字を使って創作するとはどういうことか、またはその文字はどのように変遷してきたのか、ということに意識的な人は面白く読むことができると思います。とくに読む必要のない作品だと思いますが、まあ、こんな小説もあってもいいよねと、広い心で見てやって下さればいいかと思います。

ところで、これがもし、ハヤカワ辺りで出されていたら、SFになるのでしょうか?

(成城比丘太郎)


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