- 禅寺の食事係の僧である典座(てんぞ)について
- 食事による身体と心の涵養
- 精進料理と言ってもヴァラエティは豊富
- おススメ度:★★★☆☆
生きることにおいて最も必要なのが食事をとることなのは言うまでもないでしょう。多くの人にとって食事が一番大事だという人も多いことでしょう。かくいう私も夜に睡魔(薬で眠くなる)と戦いながら思い浮かべるのは、明日の朝に何を食べるかというその一念です。そんなイイものを食べるわけではありませんが。
僧堂で修行する雲水たちにとって、もちろん私と同じではないですが、日々の食事というものが重要であることが本書を読むことによって分かります。道元が、南宋へ渡ってそこで典座のことを知り、帰国してから日本にはきちんとした食事係がいないのを嘆き、多くの僧たちに食を供え捧げるその役目の必要性を伝えるために、典座としての心構えをここに記したのです。
典座とは僧堂での役割の一つですが、とても大事なものです。それはただ単に生命活動を維持するためだけの食事ではなく、食と仏道修行とを同じものとしてとらえたのです。だから、身体と心を養うものとしての食事は大事であって、その食事係である典座の役割も重要度を増すのです。
もちろんそれをいただく方もひとつひとつを大事に大切にしなければいかないのは当たり前でしょう。そうすると、食事とは食材と自分とを一体化させることかもしれません。私は畑仕事をしていた時、たまに裸足で踏む土から大地の生命を感じて、それと繋がって生きていることをおぼえ(大袈裟)、また、様々な形で出来上がった野菜などに浸みとおった陽光や雨水のかおりを、食事とともに身体にとりいれることで「物我一体」の境地にいたれるような気がしました(錯覚)。
本書は、道元の書いた本文よりも、解説の方がおもしろいかもしれません。おもしろいというと語弊があるでしょうが、これが絶筆となった解説者は実際に典座を勤められていたようで、その経験談が結構おもしろいのです。精進料理といっても色んな種類があり、なんとバターやマーガリンを調味料に使用したこともあるようで、これほど精進料理がヴァラエティゆたかとは。カレーも出てくるし、コロッケ(肉なし)も出てくるし。ちなみにこの解説者はレシピ本も出版されているようです。
本書にもいくつか「修行定食」として料理が載せられています。その一部を紹介しますと、
「蕗の葉の佃煮」
「茄子の生姜びたし」
「小松菜の油揚げ入り辛子和え」
「牛蒡の黒砂糖煮」
「新じゃがの梅肉和え」
とまあ、私としては日本酒(般若湯)で一杯やりたいような、そんなラインナップですねぇ。禅僧ですから食べられるものはある程度制限されていて、それがかえって料理の幅をひろげて、また、無制限な範疇において何でも食することよりも豊富ものが出来上がるのかもしれません。食との付き合い方において、現代人に何かしらの手掛かりを与えてくれるかもしれません。ひとまず言えるのは、腹が減ってきたということですね。
(成城比丘太郎)
※編者注)わたし、きうらは極端な味音痴で味の基準が「うまい」「喰える」「腐ってる」の3段階しかありません。作り手にとってはこれほど詰まらない人間はいないでしょう。因みに朝はクッキー、昼飯はおにぎり2個、夜はまあ普通という感じで、間食はなし。世の中から「めし」というものが消滅してもあまり困りません。ただ、ビールだけはなくなると困るなぁ(笑)。(きうら)