- クリスマスイブに古い屋敷で行われた怪奇譚。
- 二人の美しい子どもたちと、二人の亡霊と、家庭教師の女性と。
- (ゴシック小説風)ホラーとして読めます。
- おススメ度:★★★★☆
本書は、聞き手の「私」を含む何人かで、クリスマスイブに、怪奇譚を披露する集まりからはじまります。「ダグラス」という男性が、昔出会った女性の家庭教師から送られた手記を朗読するのですが、その手記の内容部分、つまり本書で詳しく語られる女性の体験談は、実は「私」が正確に書き写したものです。ダグラスが朗読した女性の手記を、「私」が書き写して公表しているという形になるわけです。さらに、必ずしも「私」と同一ではないジェイムズが、この「三重の枠組みで語られた」(「解説」)ものを再構成した作品と読むと(ムダな深読み)、さらに四層の構造になって、そうなると「虚構」である感が強まります。
物語の筋は簡単です。その手記の書き手である女性(「わたし」)が、家庭教師として雇われて、「イングランド西部」の「カントリーハウスであるブライ」という土地に派遣されます。雇用主の男性は相当の紳士であり、彼女はこの雇用主に何かしら魅惑されたと思しき面があり、それがこの物語における女性の心理に何かしらの影響を与えているようです。そして、仕事に関する厄介事は雇用主に相談してはならない、全部自力で解決しなければならないという条件がまた、女性に更なる心理的な影響を与えたかもしれないと、読むことができるように思います。
その心理とは、(ためらいながら)女性が請けた仕事を、全部自分ひとりでやりきらねばならないという気負いからくるものでしょうか。仕事の内容とは、屋敷に住む二人の子供たちの家庭教師です。マイルズとフローラという、とても美しく、清純そうな見た目なのです。彼女は二人から良い印象を受けます。彼女はこの仕事を受け、ブライの地へやって来た時には、不安をおぼえ、気が滅入るのを感じたりしたのですが、この二人の明るさと雇い主への思いから、何とかやっていけそうだと思います。また、グロースという「お目付け役」の女性の存在も彼女にとって、良い相談相手になったようです。しかし、このグロースは、話が進ませるための都合のよい人物のようにもとれました。家庭教師の「わたし」だけでは、単なる妄想の話ともなるからです。「わたし」を相対化する人物として、この作品の恐怖が増すような役目をはたしているようです。
さて、その矢先に、彼女は塔の上に見知らぬ男を見かけます。さらに、今度は池のそばで、「女」の姿を見ます。この辺りは、「わたし」の心理状態が、何らかの恐怖対象としてあらわれ、彼女の外的世界受容について反射的な影響を与えているようにも思えました。この二人が屋敷に関わる人物だということをグロースから聞きながらも、「わたし」以外にその姿を見ることはありません。これ以降は、普通に読むと、神経質になっていく「わたし」が、周りの人(特にグロース)を振り回して行く様として捉えられます。
「私」が見た亡霊が実在していて、本当に彼女の思っている通りなら、ある意味彼女はその亡霊たちにとり憑かれたわけで、亡霊たちの思い通りに動いているとでもいうのでしょうか。それとは逆に、彼女の意識には、亡霊がはっきりと現れていながら、なにかしらの「神経症」におかされているのでしょうか。「解説」に書かれていますが、亡霊が実在するのか、それとも彼女は「神経症患者」なのかという読解は、この作品では(その判断が)回避されるように書かれているようです。そうであっても、「わたし」が狂っていって、最後の悲劇への導き手になっていく作品だと読むと、結構怖いものがあります。
また、「わたし」と子どもたちとの関係でいうと、何かしら迂遠な会話が交わされているように思います。「わたし」は、子どもたちに核心を突くようなことは最後まで聞きません。亡霊がいるかどうかというのもミステリですが、子どもたち自身の亡霊との関係も(一応)ほのめかされるだけで、その辺もミステリ的とはいえます。まあ、最後を見ると、謎ときはなされているようですが。
物語のラストへ向けて、ねじが回されていくように進む恐怖小説として読むと、結構面白いです。
(成城比丘太郎)