★★★★☆

タタール人の砂漠(ブッツァーティ[作]、脇功[訳]/岩波文庫)

投稿日:2017年10月27日 更新日:

  • 語の舞台である砦に捉われた人々。
  • 幻の敵を待ち続けるドローゴ。
  • 人生の寓話として読むもよし、幻想小説として楽しむもよし。
  • おススメ度:★★★★☆

将校の「ジョヴァンニ・ドローゴ」が、九月のある朝、任地である「バスティアーニ砦」へと赴くところから物語は始まる。それは、この話の真の主役たる砦に吸いこまれることになる、人生がうけもつ新たな犠牲でもある。砦で起こることは、ある種の人生がもつ縮図のように、何かを待望する者の心を期待の幻で絡めとる、ひとつの悲劇である。この世に生まれ落ちさせられ、何かをなすのではなく、なすべき何かを待ち続けるように運命づけられた人生を表すように、砦での待機は、時に、人にありもせぬ幻を見せるのだ。

ゴドーを待ちながら』では、一応明確な待つ対象があるが、この辺境の砦では、待つことそのものが純化されて、(敵という表象をもつ)タタール人という幻影を見させることになる。砦での生活は淡々と、時だけが雲のように流れていくように、いくつかの変事をのぞくと、ほとんど何の変化も起きることがなく続く。雲は形を変えて流れていき、山岳地帯に広がる砂漠が不可視的な形態変化を遂げていき、ドローゴには単なる「時の遁走」による外見上の変化だけが襲う。何のおそろしい襲来が起きることもなく、砦にとりつかれてしまったドローゴは、人生の味気なさを、先の見えない年月とともに繰り返すことになる。

ある日、休暇で町に帰ったドローゴを待ち受けているのは、砦での生活によって、変わってしまった自分である。何かを求めて旅立った者が、何かを見つけようと期待しすぎて帰還を諦めたものの、世界を一周していることに気付き、故郷に不意に辿り着いたところ、家族や友人たちとのあまりの懸隔にさらされ、何の感慨もなくまた旅立つのに似ている。あらゆる期待は、その者の心をある方向、ある進路に沿って石化させてしまうのだ。砦を襲う年月と冬の厳しさは、やがて石化した身を削りとり、何かの期待を明らかなものとして指し示すことがあるかもしれないが、それを彼は見つけることができず、幕が開いた先に虚しく続く時の帯を、人生の彼方にまで見通すだけなのだ。そこにあるのは、(自分の)苦しみや孤独は、自分だけのものという一つの真理。

彼の最期に、ようやく待ち受けた敵が見え始めた時、皮肉にも彼のもとには、別の訪問者が甘美を伴って彼の隣に枕を並べる。タタール人を待つということは、いずれ来る人生の終焉を表すのだろうか。何もかもが手応えなく進んでいくように読める。夢の中の出来事のように、中心がぼやけ、核心に迫ろうとしてもどこにも辿りつけず、周辺部分を彷徨うあいだに、中心などなかったことに気付くのだ。そういう読後感。

『バーナード嬢曰く。三巻』(施川ユウキ、一迅社)では、この『タタール人の砂漠』を取り上げて、様々な解釈を紹介している。この物語の「何も起こらないまま人生を浪費する」部分が「40代くらいの人」(の胸)に刺さるらしい。確かに今回再読して、20代で読んだ時よりも胸に迫るものがあった。多分この先十年後、二十年後も折に触れて読み返すだろうし、その時にも最初の一行から最後の一行まで、私に甘くてかなしげな吐息を吹きかけてくれるだろう。そして、人生の落日を感じると判断した時には、物語への比重はより結末部へと私をいざない、常に人生は無為であったことを、すべては孤独のうちにあったことを、予見された悟りへの糸口として知るだろう。冬の黄昏時のように忍び寄ってくる深淵が心をなぐさめて、まだ立ちあがることを諦めることはないと教えるように。空からのばされる月の光の腕につつまれる幻が、若者の広大な未来がもつ希望と不安に巻かれるさまを想起させ、人生の不条理は常に焼きついていたと知るだろう。その時、早春が粒子となって訪れるのを期待するように、私はおもむろに本書を手にとるだろう。そして誰もがドローゴだったと知ることだろう。車窓をすぎる光景は人生のはかなさではなく、何の痛痒もない平凡さだ。その平凡さをかみしめる間に、時は列車のようにあらゆる景色をおきざりにする。どの駅で降りてもいい。任意の地点に呼ばれて、晩秋の朝焼けが領するその町をひたすら歩いてみればいいかもしれない。街路樹におおわれた空に輝く星の下には、あらゆる想念の源になったものが待っているだろう。それが最後に出会う待ち人であれば幸いなことだ。

とまあ、ちょっとおかしな紹介になりましたが、若者が読んでも、年配の方が読んでもきっと心に刺さるものがある一品になっています。

(成城比丘太郎)


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