- 読書メモ(062)
- がん療養の日記
- がんになってから考える死と生
- オススメ度:★★★☆☆
著者は、フランス現代哲学専攻の学者。この人の著作はひとつくらいしか読んだことがなかったので、どういう哲学的信念をもっているかわからなかった。これを読んだ限りでは、学者としてはある程度(山あり谷ありながらも)順調な人生を送ってきたと思われます。そんな著者は、がんと診断されてから、死生観ががらっと変わってしまったようです(というか、はじめて死に直面したかんじかな)。古希(70歳)を目前に控え、これからの余生をどう過ごそうかと考えていたところに、がんという診断からくる余命を意識せざるを得なくなったようです。そのことにより、死とはなんなのか、人生とはなんなのかを、おそらくはじめて実感的に考えたようです。
そのことを哲学を通して書こうとするのですが、なまじっか冷静に書こうとするだけに、その筆致からたまに死への恐怖がにじんでくるので、けっこう読んでいてつらいものがあった。こういう闘病記みたいなのは読んだことあるけど、がんという病がこれほど人を動揺させるのかを目の当たりにさせられるとなんともいえない。とくに、日本の医療体制への不満を述べるところなどは、自分にも少し思い当たることろもあるのでさらにつらい。といっても自分には、がん患者の心のうちはわからないけれども。
2020年10月現在の日本でも、新型コロナウイルス感染に対する不自由さはありますが、おそらく一番不自由さを感じているのは、内臓などに基礎疾患とかを抱えた病人でしょう。とくに、がん患者は治療の過程で免疫力が落ちていると思われるので、さらに感染へすることへのリスクがあがっている。つまり、元々不自由だったひとたちがさらに不自由さを感じてしまうことを、この度の感染症蔓延が浮き彫りにさせた面があります。
なので、誰よりもこの感染症が収まるのを待ち望んでいるのは、著者をはじめとする「病気の人の国」(ソンタグ)にいるひとなんでしょう。はたしていつ、もとの日常が戻るかわかりませんが、おそらく皆が待っているその時が到来したら、はじめて日常のすばらしさに涙するかもしれません。明けない夜はないとはいえ、しかし、感染症との付き合いはこれからもさらに日常的なものとして重要になるのでしょうねぇ。そのなかでいうと、がん患者にとってその日常とは、著者がいう「拷問のような治療」と、がん再発転移への不安の日常でもある、ということを本書からは感じます。ガンとの付き合いという未来の永遠さを思うとめまいがしそうです。ここまでガンが人間の思考や心理に及ぼす影響を見てしまうと、ガンとその治療のおそろしさに本当に何とも言えない。
ある程度のステージに至ったガン患者にとって、そういう診断が下った時点で、思考の範囲は狭まるだろうと思われます。自分と自分の周りにいる家族のことなどだけに限定される人も多くなるでしょう。そういう人にとって、社会で起こっていることのほとんどに無関心になるんじゃないかと、本書を読んでそう思います。たとえば現在世間をあまり騒がせてない「日本学術会議」の問題などには、蟻んこが地べたを這いずり回っている以下の興味しかなくなるかもしれません。ガン患者のことを持ち出して世間の話題をするのは自分でもどうかと思いますが、私でもそう思っているので、そんな問題などで騒ぐのはどーなんだろう。
とそう思っていたのですが、先週(10/17)の毎日新聞に掲載された、「加藤陽子の近代史の扉」を読んでいて、蟻んこの騒ぎとは違う視点を得ることができた。この加藤氏はいうまでもなく今回名簿から除外されたうちのひとりです。この人が何を語るかを少し気にしていたので、そのコラムを読んで、なにを問題にしなければならないかを、学術研究(における環境)の現状や歴史学の視点から知ることができて有益だった。ただ単にワーワー騒ぐのだけが能じゃないことがよくわかりました。その「加藤陽子の近代史の扉」の内容については、けっこう示唆的でしかも少し迂遠な部分もあるのでなかなか要約できません。というか要約しても趣旨は伝わらないと思います。ひとつ言えるのは、学者としての矜持や責務をしっかりと自覚したこういった学者が、きちんとした基礎研究にいそしめるような場に、大学などの研究機関がそうなってくれることを願うばかり。ここでおもしろいのが、この人のコラムと「みんなの広場」が隣り合っていることでしょう。「みんなの広場」とは、一般の読者からの投稿をのせているところ。この紙面構成には、いったい何の意味をもたせているのだろうか。毎日新聞のレイアウトには時々感じるのだが、深読みすると悪意をもよおさせるような読み方を講読者(=私)にさせているのではないかと勘繰ってしまうことがある。まあ、ゲスの勘繰りだが。
少し脱線しすぎました、すんません。まあ、それもこのブログの特徴なのでいいのでしょう、ここまで読んでくれた人なら、そんなのは承知でしようから。さて、話を戻します。本書から著者の不満を際立って感じるのは、やはり著者のかかった総合病院へのそれでしょう。今時そんな非効率な病院がまだあるんかいなと思いましたが、これなんかは個人的にはすぐにでも解決できる面はあるかと思います。たとえば、国に個人の既往歴などの医療情報をデジタル化して一括管理してもらえば、かなりスムーズになると思うのですが。たいした病人でもない自分でもそう思うのですから、ガン患者さんにとってもそれがいいのではないかと思うのですが。「健康な人の国」(ソンタグ)の住民であった以前の著者なら、そのことを「生命政治」(フーコー)といって批判したでしょうが、治療や診断において1秒も惜しいと思っているであろう患者にとっては、むしろ国に一括管理されてもそれでいいと考える余地はあるような気もしますが。
まとめです。「病気の人の国」といっても、その内実はけっこうグラデーションがあるかと思います。「健康な人の国」には「病気の人の国」ことはわかりません(自分もそうだったし)。でも、そんな病気の人の国にいても、ガン患者のことは全くわからない。ガンに罹患するというのはどういうことかを、おそらく想像することもできないかもしれない。ということは、それほどたいしたことのない病気でウダウダ文句いってるのが、アホらしくなってくる(ような気がする)。
(成城比丘太郎)