- 読書メモ(061)
- 突如世界を襲った伝染病
- 人類滅亡の危機を描いたフィクション
- オススメ度:★★★☆☆
【どーでもいい近況報告】
この記事が投稿されているときには10月になっていると思います。いつもなら秋の花粉症に少し悩んでいる時期ですが、今年はマスクをしているのであまりしんどくないはずです。ほんで9月からたまに栗拾いをしているので10月から本格的に栗をパクパクモグモグしていることでしょう。野生の栗なのでそんなにうまくないですけど。
それと同時に、10月からは毎年行っているタスク(?)があります。それはカマキリ助けです。これはなにかというと、秋晴れの日に公園の歩道などで日向ぼっこをしているカマキリが、歩行者や自転車などに踏み潰されないように、そいつらを草むらや道路の端の方へ逃がしてやることです。
この時期には、歩道などでペシャンコになっているカマキリをよく見かけるので、そうならないようにしているわけです。とくにオスを食しているメスなんかは踏まれやすいのでそうならないように歩道から遠くへ追いやります。
なぜこんなことをしておるかというと、単なる自己満足の罪滅ぼしです。自分は小学生のときにカマキリを捕まえてはケンカなどをさせて弄んで、けっこうヒドイことをしていたので、その罪滅ぼしとして自分勝手な懺悔として、今になってカマキリ助けしてるわけです。
【ようやく本題】
さて、長々と近況報告を書いてきたわけは、今回紹介する本についてとくに書くことがないからです。というか、別に紹介する気はないんですが、一応なにか書いておきます。
表題作の「赤死病」は、まさにこの時(新型コロナウィルス蔓延)だからこそこのタイトルで出版されたのかもしれない。作品の舞台は、2073年くらいのアメリカ西海岸。とある老人が、孫たちに過去を語るのです。2013年に突如世界を襲った「赤死病」がどのように人類を滅亡寸前にまでおいやったのか、そしてそこから生き延びた少数の人間がいかに生き残りをはかろうとしてきたのか、まあそんなことを語るわけです。
で、別に破滅世界のおそろしさがそれほど描かれるわけでもなく、むしろ老人の昔語りと、それを聞く若者たちとの、なんかディスコミュニケーションがなんかおもろいところがある。
もちろんその「赤死病」なるものの発生当時のことには多少のおそろしさがあるものの、語り手である老人自身の語りはまさに過ぎ去った過去というフィルターにさらされ、その老人をバカにしたかのような感じのある孫たちのまさに現在性が、かえって目立つような気がする。つまり、若者たちにとっては語りの次元であるその現在こそがまさに生きるべき世界そのものでしかないということです。
そのせいか、現役の若者たちのいる世界はいつ人間が絶滅してもおかしくないはずなんてすが、そこには危機感はあまり感じない。おそらく若者にとってはその世界こそが所与そのものだからだろう。人間がほぼいなくなった世界というのは、自然すなわち他の動植物が跋扈する世界ということなのでしょう。熊やアシカなどの動物が作中に登場しますし、おそらくその他にも動物たちがその本来の実存でもって地球上を生き抜いていることでしょう(動物に実存性があるかは知りませんが)。
数百人しか地球上に残っていないということは、おそらく近い将来この作品世界から人類は死に絶えるでしょう。もう二度とホモサピエンスは繁栄しないでしょう。そう考えると、現在の新型コロナウィルスなんてのは屁みたいなものだわ。この作品から何らかのアクチュアリティを読み取るのはバカげたことかもしれない(そんな読み取りは新聞の社説以下)。まあどんな読み方をしてもいいのですが、ひとつわかったのは、いかにこの地球の自然そのものがすばらしいかということ。青い空の青く見えるそのこと自体や、風が緑を通ってさらに輝きを増すことや、川の流れが人の声に似たものとして誰かの心をめざめさせることなど、すべての自然の営為が、人類滅亡後つまりその現れを感知する存在がいなくなるということ、そのことの本当の意味はわからないものの、それら自然が続くならそれでいいではないかと「想う秋の日」。
本書には他にも2編収められている。「比類なき侵略」は、今から100年くらい前からみられた、当時の中国観がうかがえる。台頭しつつある中国に対して白人社会がどのような対抗手段をとったのかは、読んでみてください。
「人間の漂流」は、人類の発展や大移動などを巨視的にみようとしているもの。これもまあ当時からしたら多少は現代的に妥当するものかもしれない(そうでないかもしれない)。
まとめ。本書は読んでもいいし読まなくてもいい。好きにしたらいいとおもう。そもそも、このブログは自分のために書いてるので、本書を読むかどうかは好きにしてください。
(成城比丘太郎)