- 読書メモ(64)
- 「シェイクスピアの政治学」
- 暴君がうまれる経緯
- オススメ度:★★★☆☆
- 【はじめに】
どのような経路をたどって暴君がうまれるのかを、いくつかのそのタイプを実際の作品を通してみていくという内容の本。「後ろめたい思いのない人物は皆無」というシェイクスピア劇では、色んな人がわちゃわちゃしています。
なぜ暴君の誕生を止められないのか、なぜ「統治者としてふさわしくない指導者」に心惹かれてしまうのか、なぜ人々は「暴君の完璧な厚顔無恥に屈するのか」ということをシェイクスピアは何度も書いた。そして、そんな暴君を止める手だてはあるのかということも書きました。
シェイクスピアが活動していた時代のイングランドには、「表現の自由などなかった」ようです。「表現の自由」ってのは現代の感覚では十分ではないけど一応保障されてるけど、シェイクスピアの時代はおそらくそんな概念すらなかったのかも。たぶん、綱渡りをするような感じでしょう(よく知らないけど)。現代の日本だと、何かを表現してても最終的にはきちんと安全は確保されている。でもそんな日本でも、行きすぎた表現で社会的に抹殺されることはあるだろうけど。
【実際の作品から暴君をみる】
『ヘンリー六世』では、王の弱さから派閥争いが激化して、「通常の政治が専制政治へと変わってしまう歪んだ道が描かれている」のです。ここでは、扇動者がいて、暴君をたきつけもするのです。
『リチャード三世』は、ゴーマンでナルシシストの俺様暴君。究極の喜びである政治目標である絶対権力を志向する暴君は、「肉体的歪み」と母子関係(毒親的な?)から、さらなる暴力性を増す。そんな支配者に振り回されて、人々は「まちがった選択を強いられてしまう」んだが、まあしゃーないか。
『マクベス』のマクベスは、最初は王に忠誠を誓う将軍だったけど、三人の魔女のコトバに恐怖し、そしてマクベス夫人のそそのかしにより謀叛への道を進む。ここで描かれているのは「暴君の権力は古い秩序がまだあるほど有効」だということ。古い支配は形骸化するものの逆にそれが新たな支配への正当性を与えることになるということでしょうか。さらには、「暴君に真の友はいない」という孤独に空しさをおぼえる。
もともと正統な王だったはずなのに、「精神的不安定さ」ゆえに暴君ともなります。『リア王』では、王が正気を失うとどーなるの、ということが描かれる。衝動的に何をやるのか分からない人物が統治する国家ほど危険なものはないということです。そんな王に代わって暴君となるのは「邪悪な娘たち」です。
『冬物語』でも、「正統な支配者が発狂して暴君」になる。ここで描かれているのは、「権威の構造自体をひっくり返してしまうのが専制政治だ」ということです。
『ジュリアス・シーザー』では、「専制政治」の誕生を阻止するためにどのような手だてが必要なのかが描かれる。
【まとめ】
あくまで「暴君」というものを通してシェイクスピア作品を読み解いていく本です。様々な暴君の周辺にはもちろん色んな役割をもった人物がいて、そうした人たちが暴君の誕生に手を貸したり、自らの欲求を満たしたり、あるいは暴君の誕生を止めようとしたりする。
「シェイクスピアは、暴君とその手下どもは、結局は倒れると信じている。自分自身の邪悪さゆえに挫折するし、抑圧されても決して消えはしない人々の人間的精神によって倒されるのだ。皆がまともさを回復する最良のチャンスは、普通の市民の政治活動にあると、シェイクスピアは考える。」(p247)
暴君とは、招かれざる客であるし、そんなものは来ないでほしいと思ってるだろうけど、ミクロで見るとどんな組織にも暴君は潜んでいるでしょう。政治指導者だけでなく、どこにでも暴君的な存在はいるかもしれない。著者が書く「普通の市民の政治活動」ってのは、本当にあるのか、そんなのがあったとしてきちんと機能するとは、どーいうことなんだろうか。よーわからん。
余談。この前、「大阪市廃止に伴うなんちゃらかんちゃら」が住民投票で否決されたけど、あれは一応「普通の市民の政治活動」の結果だとすると、まあ否決されてよかったのか。もし僅差で可決されてしまってたら、この後の展開にわずかの失敗も許されないだろうからなぁ。個人的には、一応大阪市◯◯区に今でも本籍地があるんだけど、それが消えてしまっても何とも思わないんだが。というか、平成の大合併とやらで、いくつもの市町村を統廃合しといて今さら大阪市がどーなろうと知ったことではありません。
(成城比丘太郎)